2013・8・28(水)ザルツブルク音楽祭(4)
モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」 エッシェンバッハ指揮、ベヒトルフ演出
ザルツブルク モーツァルトハウス 7時30分
長大な「ドン・カルロ」のあとで更に「コジ」を観るなど、趣味としてはあまり良いとは思えないが、職業意識からすれば、やっているからには観ておかないと、ということになる。近くの日本料理店で知人と鮨をつまんでから、さっきの大劇場の隣にある「モーツァルトのための家」(とりあえずモーツァルトハウスと略す)に向かう。
指揮者が当初のウェルザー=メストからクリストフ・エッシェンバッハに変更になり、いろいろゴタゴタしたそうだが、それは措く。
今日は、5回公演のうちの最終公演である。
このエッシェンバッハの指揮、世評はあまりよろしくないようだが、私は意外に楽しめた。
というのは、彼は何一つ演奏に細工を加えず、淡々と速めのテンポで、しかもイン・テンポで、オーケストラの細部を彫琢するようなこともせず、ただ素っ気ないくらいに指揮するので、むしろモーツァルトの音楽の和声的な美しさや、躍動的なリズム感が、余計な紆余曲折を経ることなく、あるがままに再現される結果になっていたからなのである。
最近のモーツァルトのオペラの演奏にありがちな、やたらにテンポを伸縮させたり、遅いテンポを殊更に誇張したり、持って回った説明調にしたりするスタイルには、正直言って私はうんざりしているので、・・・・モーツァルトの音楽は、ただあるがままに、というのが私の好みであり、持論なのだ(もちろん、例外もあるが)。
では、今夜のエッシェンバッハの指揮がすべてにおいて理想的なものであったかと問えば、必ずしもそうは言いがたい。が、要するに、余計な手を加えずにちゃんと纏め上げた――というのは、確かに美点ではあるだろう。
ウィーン・フィルも、連日連夜ご苦労さまだ。演奏は骨太でおおらかな響きで、細かいところに拘泥せずという感もあったが、まとまりは良かった。もっともこのくらいの演奏は、このオケにとってはお茶の子なのではなかろうか。
スヴェン=エリク・ベヒトルフの演出。私はウィーンで彼が演出した「指環」は、みんなが言うほど気に入っていなかったので、今回はあまり期待していなかったのだが、予想外に楽しめた。
格子状のガラス張り(みたいな)の窓に囲まれた大きな空間で、登場人物たちが実に活発に動き回り、コミカルな演技でドラマを進めて行く。とりわけ長身のルカ・ピサローニ(グリエルモ)が踊るような身振りでガウンをはためかせながら迫って行くところなど、その滑稽でユーモアあふれる演技には、観客も沸いた。
序曲のさなか、2人の姉妹がプール(といっても風呂みたいだが)で水浴中に、恋人の男たちが覗き見をするというシーンで始まる。いい趣味とは言えぬ演出だが、これはこのドラマ全体を通じて、友人が自分の恋人を誘惑するさまをガラスの向こう側から、あるいは同じテーブルに座って興味津々眺めるという趣味がフェランドとグリエルモにはあったのだ――という心理の伏線だったのかもしれない。
全曲最後は、最近の演出の定石どおり、「仲直り」はない。それでもちょっとひねってある部分は――フェランドは最初とは「違う方の娘」とくっついてしまうが、グリエルモは「おれはごめんだ」と相手を拒否するところだろう。
・・・・ただ、私も連日連夜の連戦が祟って注意力が散漫になり、しかもこの2人の姉妹がラストシーンではまるで双子のように体型も衣装も同じで、しかもこちらに背を向けたままでいるものだから、どちらがフィオルディリージ(マリン・ハルテリウス)で、どちらがドラベッラ(マリー=クロード・シャピュイ)だか一瞬分からなくなってしまったのである。万が一、その組み合わせが逆だったら――ということは、フェランドは最初の相手と縒りを戻すが、グリエルモは最初の相手とは「もうごめんだ」というわけか――曖昧で申し訳ない。ビデオが出れば、ここの場面は正確に確認できるだろう。
歌手陣は他に、マルティン・ミッテルルッツナー(フェランド)、ジェラルド・フィンレイ(ドン・アルフォンゾ)、マルティナ・ヤンコーヴァ(デスピーナ)といった面々。みんな確実な歌いぶりで、音楽的水準の高い上演となった。とりわけデスピーナ役のヤンコーヴァの愛らしさと芸達者ぶり、シャピュイの明朗な演技と安定した歌唱、それに前述のピサローニの豪快闊達な役者ぶりが印象に強く残る。
休憩30分ほどを挟み、終演は午後11時10分頃。
モーツァルトの音楽の本来の美しさを堪能出来て、まずは満足。このところワーグナーだ、ストラヴィンスキーだ、ベルクだ、シェーンベルクだという音楽の連続だったので、ここでモーツァルトのオペラに――特に最も木管の和声の美しいこの「コジ」に浸れたことは、本当に新鮮だった。
長大な「ドン・カルロ」のあとで更に「コジ」を観るなど、趣味としてはあまり良いとは思えないが、職業意識からすれば、やっているからには観ておかないと、ということになる。近くの日本料理店で知人と鮨をつまんでから、さっきの大劇場の隣にある「モーツァルトのための家」(とりあえずモーツァルトハウスと略す)に向かう。
指揮者が当初のウェルザー=メストからクリストフ・エッシェンバッハに変更になり、いろいろゴタゴタしたそうだが、それは措く。
今日は、5回公演のうちの最終公演である。
このエッシェンバッハの指揮、世評はあまりよろしくないようだが、私は意外に楽しめた。
というのは、彼は何一つ演奏に細工を加えず、淡々と速めのテンポで、しかもイン・テンポで、オーケストラの細部を彫琢するようなこともせず、ただ素っ気ないくらいに指揮するので、むしろモーツァルトの音楽の和声的な美しさや、躍動的なリズム感が、余計な紆余曲折を経ることなく、あるがままに再現される結果になっていたからなのである。
最近のモーツァルトのオペラの演奏にありがちな、やたらにテンポを伸縮させたり、遅いテンポを殊更に誇張したり、持って回った説明調にしたりするスタイルには、正直言って私はうんざりしているので、・・・・モーツァルトの音楽は、ただあるがままに、というのが私の好みであり、持論なのだ(もちろん、例外もあるが)。
では、今夜のエッシェンバッハの指揮がすべてにおいて理想的なものであったかと問えば、必ずしもそうは言いがたい。が、要するに、余計な手を加えずにちゃんと纏め上げた――というのは、確かに美点ではあるだろう。
ウィーン・フィルも、連日連夜ご苦労さまだ。演奏は骨太でおおらかな響きで、細かいところに拘泥せずという感もあったが、まとまりは良かった。もっともこのくらいの演奏は、このオケにとってはお茶の子なのではなかろうか。
スヴェン=エリク・ベヒトルフの演出。私はウィーンで彼が演出した「指環」は、みんなが言うほど気に入っていなかったので、今回はあまり期待していなかったのだが、予想外に楽しめた。
格子状のガラス張り(みたいな)の窓に囲まれた大きな空間で、登場人物たちが実に活発に動き回り、コミカルな演技でドラマを進めて行く。とりわけ長身のルカ・ピサローニ(グリエルモ)が踊るような身振りでガウンをはためかせながら迫って行くところなど、その滑稽でユーモアあふれる演技には、観客も沸いた。
序曲のさなか、2人の姉妹がプール(といっても風呂みたいだが)で水浴中に、恋人の男たちが覗き見をするというシーンで始まる。いい趣味とは言えぬ演出だが、これはこのドラマ全体を通じて、友人が自分の恋人を誘惑するさまをガラスの向こう側から、あるいは同じテーブルに座って興味津々眺めるという趣味がフェランドとグリエルモにはあったのだ――という心理の伏線だったのかもしれない。
全曲最後は、最近の演出の定石どおり、「仲直り」はない。それでもちょっとひねってある部分は――フェランドは最初とは「違う方の娘」とくっついてしまうが、グリエルモは「おれはごめんだ」と相手を拒否するところだろう。
・・・・ただ、私も連日連夜の連戦が祟って注意力が散漫になり、しかもこの2人の姉妹がラストシーンではまるで双子のように体型も衣装も同じで、しかもこちらに背を向けたままでいるものだから、どちらがフィオルディリージ(マリン・ハルテリウス)で、どちらがドラベッラ(マリー=クロード・シャピュイ)だか一瞬分からなくなってしまったのである。万が一、その組み合わせが逆だったら――ということは、フェランドは最初の相手と縒りを戻すが、グリエルモは最初の相手とは「もうごめんだ」というわけか――曖昧で申し訳ない。ビデオが出れば、ここの場面は正確に確認できるだろう。
歌手陣は他に、マルティン・ミッテルルッツナー(フェランド)、ジェラルド・フィンレイ(ドン・アルフォンゾ)、マルティナ・ヤンコーヴァ(デスピーナ)といった面々。みんな確実な歌いぶりで、音楽的水準の高い上演となった。とりわけデスピーナ役のヤンコーヴァの愛らしさと芸達者ぶり、シャピュイの明朗な演技と安定した歌唱、それに前述のピサローニの豪快闊達な役者ぶりが印象に強く残る。
休憩30分ほどを挟み、終演は午後11時10分頃。
モーツァルトの音楽の本来の美しさを堪能出来て、まずは満足。このところワーグナーだ、ストラヴィンスキーだ、ベルクだ、シェーンベルクだという音楽の連続だったので、ここでモーツァルトのオペラに――特に最も木管の和声の美しいこの「コジ」に浸れたことは、本当に新鮮だった。
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