横綱日馬富士が引退の意向を表明した。

 私は、詳しい事情を知らない。
 引退を表明したというニュースの見出しを読んだだけだ。
 横綱を引退に追い込むことになった状況や、その背景に関しても、他人に向けて開陳するに足る情報は持っていない。

 ありていに言えば、私は、この騒動を、余儀なく知らされることになる断片的なウェブ情報として知っているだけで、きちんとした分析や背景を解説した記事は、ひとつも読んでいない。テレビも見ていない。なので、何も知らないと言ったほうが実態に近いだろう。

 にもかかわらず、今回は、大相撲の話を書くつもりでいる。

 まず、この半月ほどの間、世間を大いに騒がせていたこの日馬富士と貴ノ岩の間に生じた暴力事件について、当欄で取り上げなかった理由を説明しておく。

 私は、これまでに当欄において、大相撲関連の話題をテーマに4篇ほど(あるいは5つか6つぐらいあったかもしれない)の原稿を書いている。

 内容的には、朝青龍の引退騒動や、八百長疑惑問題や、暴力団との交際報道など、力士に関連する不祥事からわれわれの文化的な恥辱の部分を考察した記事だった。

 それらの原稿の出来に満足していないというのではない。
 というよりも、当欄にアップした大相撲関連の記事は、いずれも思うところを過不足なく表現することのできたそれはそれでまずまずの文章だったと思っている。

 ただ、それだけに、「大相撲と日本人」というテーマについては、ある程度書き尽くした自覚がある。だから、この先、大相撲の周辺で起こる出来事に関して何を書いたところで、重複は避けられないだろうとも思っている。

 とはいえ、書く書かない以前に、私自身が、この話題に関与すること自体を、当初の段階から明らかに忌避していたこともまた事実ではある。
 つまり、私は、大相撲から逃避していたわけだ。そうでなくても、情報を遮断していたことは間違いない。

 テレビはこの2週間ほど視聴していない。
 理由は、この話題を扱っているテレビの画面を見ると、ほんの10秒ほどで、画面の中にいる全員を嫌いになってしまうからで、無駄な敵意を燃やして体力を消費しないためにも、私は、この話題を扱ったテレビにはチャンネルを合わせなかったということだ。

 新聞の記事も、ウェブに流れてくるニュースも、見出しより先の部分は読んでいない。
 時系列に沿った主な記事は、習慣としてクリップ(エバーノートにコピペしています)しているのだが、まだ目を通していない。
 録画してあるニュースも再生していない。
 この記事を書くにあたって、20分ほど前から、クリップしてある記事にざっと目を通すことをはじめていたのだが、その作業も、さきほど投げ出した。

 というのも、このニュースに関しては、細かい情報を知れば知るほど、気持ちが沈んでくることをどうすることもできなかったからだ。

 なんというのか、大相撲への愛情が減退し、日本人と日本文化への忌避感が募り、われわれの社会を社会たらしめているものへの苛立ちが亢進することがはじめからわかりきっていたからこそ、私は、このニュースに触れることをためらい、この騒動を扱った論考へのアクセスを拒絶し、そもそも、日本に大相撲があることを思い出すことから逃れようとしていた次第なのだ。

 話を整理すれば、私が大相撲関連のニュースを遮断していた理由のひとつは、「いやな日本人」が群がっていることを伝える情報を読みこなすことが自分にとっては過大な精神的負担であったからで、もうひとつは、その種の「いやな日本人」のニュースに触れた時に自分が示すであろういやな反応に自分ながらうんざりしていたからということでもある。

 おそらく、私は、

 「オレみたいな視野の広い人間から見れば、君たちみたいな直情的な日本人たちは、これこれこんなふうに見えているのだぞ」

 という感じの上から見下したカタチの原稿を書くことになる。
 というよりも、このテーマで原稿を書く以上、その書き方から逃れることは事実上不可能なのだ。

 なんとなれば、大相撲の周辺で起っていることは、もうずっと前から、多かれ少なかれ「日本人の悪いクセ」というタグからほとんど一歩も外に出ない話題に終始していて、その「日本人の悪いクセ」をテーマとする原稿は、「自分のことを棚に上げたエセ文化人」の立場からでないと書き起こすことができない種類の文章だからだ。

 そんなわけなので、その自分が書くに違いない原稿のイヤミったらしさに、あらかじめ食傷していたからこそ、私はこの件について書くことを自らに禁じていたのであり、それ以上に、この件を考えること自体を拒絶していたのだ。

 しかも、私は、苛立つばかりで、改善策をひとつも持っていない。
 自分たちが日本人であるというところから発しているこの問題を解決するためには、われわれが日本人でなくなること以外に方法がない。

 とすれば、私が心がけなければならないのは、せめて自分自身だけでも「悪しき日本人の典型的な行動パターン」を踏まないように努力することであるはずで、その典型的な醜い日本人として振る舞わないための具体的な第一歩がすなわち、日馬富士暴行問題に群がって騒ぎ立てる人間たちの一員に加わらないことだった…というわけだ。

 さて、以上が、私がこの話題についてこれまで書かなかった理由なのだが、ここから先、私は、自分がこの話題について原稿を書く理由を説明しなければならない。

 この説明はちょっとむずかしい。
 読者に届くものなのかどうか自信がないのだが、書くだけ書いてみる。

 さきほど私は、大相撲の問題に通底している「日本人の悪いクセ」を論じるためには、「自分が日本人であることを棚に上げた腐れ文化人」の視点から物申すほかに方法がないという意味のことを書いたのだが、これは、書き方の問題だけではなくて、もしかしたら、われわれの身の処し方全般についてそう言える話なのかもしれない。

 どういうことなのかというと、われわれが、「日本人の悪いクセ」から逃れるためには、自分自身が日本人であることを一旦棚上げにして、「国際人」というありもしない架空の立場に依って立って芝居を打つ以外に、スタンスの取りようがないということだ。

 そのためには、原稿を書く人間は、自分のものの言い方がイヤミったらしい出羽の守の言い草であることを重々承知した上で、それでも日本人を叱りつける言説を繰り返さねばならないということだ。

 このことは、

 「おい、さっきから日本人に説教をカマしてるお前はいったい何人なんだ?」
 「オレか? オレは未来の日本人だよ」

 という、この胡散臭い小芝居を図々しくやり通す覚悟がない人間は、はじめから大相撲には言及するべきでないということでもある。

 なんとなれば、このほど「大相撲」という枠組みの中で体現されてしまった「日本」なるものは、われわれにとって、等しく恥辱そのものでもあるからだ。

 今回の事件を私が見聞した範囲の情報から思い切り単純に要約すると、「モンゴル力士社会」という異様に狭っ苦しいムラ社会の中で勃発した暴力事件を、「大相撲社会」というこれまた異様に狭っ苦しいムラ社会の人間たちが処理するにあたって外部に漏れたほころびを、「平成の日本」というこれまた盛大にも広大にも狭っ苦しいムラ社会のメディアがよってたかって突き回しつつ娯楽として消費している姿だったわけで、つまり、私が立っている場所から見ると、このお話は、三重の同心円構造を持つ巻き貝の中身みたいな螺旋的ムラ社会カタツムリぬらぬら事案だったということになる。

 と、細々とした事情はともかくとして、この問題を解く鍵は、
 「ムラ社会の外にいる人間の目から見ると、ムラ社会の中の出来事はただただ異様に見える」
 という至極当たり前な観察の周辺にある。

 相撲界全体から見ると、モンゴル力士社会内部でやりとりされている関係や言葉や感情は、どれもこれもバカみたいに狭量で低劣に見えるわけなのだが、その相撲社会がモンゴル力士社会を断罪しようとした態度を日本の一般社会の人間の視点で見ると、これまたとてつもなく狭量粗雑なやりざまに見える、と、ここまでは良い。

 大切なのは、その日本の良識ある横綱審議会だのマスコミ言論人だのが、相撲界に対して物申している「相撲の美」だの「日本の伝統」だの「横綱の品格」だのといったお話にしたところで、彼らの属しているムラ社会の外側かたあらためて見直してみれば、およそ滑稽なポエム規範に過ぎないということだ。

 もうひとつ私が、この事件の発生以来ずっともやもやと考え続けているのは、日馬富士が体現してみせた「暴力」は、もしかしたら、相撲の世界の中の人たちが口を酸っぱくして繰り返している「相撲の美」や「横綱の品格」ひいては「日本の同調」の本質を純化した果てにあるものなのではないか、ということだ。

 

 このお話も、ちょっと説明を要する。

 外国からやってきた人間は、その国の文化の本質の部分を、その国で生まれつきの人間として暮らしている者には思いもつかぬやりかたで掴み取っている場合がある。

 私の知っている例では、ジョン・レノンという人が、いくつかそういう歌を書いている。

 ひとつは、あの有名な「Imagine=イマジン」で、これは、現在では、オノ・ヨーコさんとの共作でクレジットされるようになった歌でもあるのだが、この歌の中には、レノン氏が、日本からやってきた女性であるヨーコさんから吹き込まれた東洋思想へのあこがれや、架空の平等社会日本のイメージが、極めてシンプルなカタチで反映されている。その点で、世界中の人々の詩的イマジネーションをかきたてる歌に仕上がっている。

 死後に発表されたアルバムの中の1曲「Borrowed Time」というのも不思議な歌だ。

 ジャスラックの皆さんへの配慮で、内容を詳しく紹介することは控えるが、タイトルにある通り人生を「借り物の時間」と喝破する内容を持つこの歌の底流にも、ヨーコさんをネタ元とする東洋思想の大胆な翻案が採用されている。

 この種の外国人の立場からの異文化への言及を、安易かつ粗雑な要約に過ぎないと見る向きがあることは承知している。

 が、私自身は、われわれの文化の中にある世界や人生についての洞察を「borrowd time」 というたった二つの単語で要約してしまうような荒業は、これは、むしろ外国人だからこそできたことなんではなかろうかと考えて、それを積極的に評価することにしている。

 余談だが、私もひとつこの関係のネタを持っている。

 リンク先(こちら)にあるのがそれだ。これは、ビートルズの「Nowhere man」という歌のパロディーで、1998年にテポドン発射記念として、当時開設していたホームページに掲載した作品だ。

 タネを明かせば、「nowhere=どこにもない」という単語の間にスペースを1個挿入すると「now here=いま、ここ」になるということで、これを踏まえると個人的な妄想の中に生きる男である「nowhere man=空しい男」は、ひとっかけらの想像力も持たない自己啓発的な「now here man=即物野郎」に変貌する。

 nowhere を now here に読み替えるみたいなこの種のあまりにも単純な地口は、案外、外国人だからこそ発見できるものだというお話でもある。

 外国人は、海外の文化を単純化したうえで摂取する。
 その単純化が正しいのか間違っているのかという問題ではない。
 彼らの立場からすれば、あるフィルターをかけて、単純化してからでないととてもじゃないけど飲み込むことなんてできない。それだけの話なのだ。

 日馬富士に話を戻す。

 モンゴルからやってきた力士は、日本語はもちろん、言葉として明示されないメッセージのやりとりを含めて、日本的な対人関係の築き方や、日本の力士としてのコミュニケーションの取り方をすべてゼロから身につけることを求められる。

 先輩力士が特定の場所で特定の所作を繰り返しているのは、いったい何を意図した意思表示なのか。

 あるいは、ご祝儀として受け取った金品をどんな基準で分配するのが部屋に所属する者としての最も適切な振る舞い方であるのか。

 そういった細々とした先方の意図の読み方やこちらの意思表示の方法を含めて、さしあたり自分の周囲にわだかまっている空気を読むということが、彼らにとっての死活問題であり、処世訓でもある。で、そうした日常的な適応の物語の先に「横綱の品格」があり「相撲の美」があり「ニッポンの文化」があったはずで、彼らからしてみれば、お箸は右手茶碗は左手みたいなことすらも、「勉強」だったに違いないのだ。

 引退会見の中で、日馬富士が後輩を指導するために時には厳しい説諭もすることが先輩力士としての心得であるという意味の話を強調したことを、言い訳がましいと感じた人たちもいることだろう。

 実際に、「後輩を厳しく指導する」ことと「アタマに裂傷ができるほど激しく殴打打擲する」ことは、まったく別の話だし、前者が後者を免罪する筋合いの話でもない。両者は、正反対の態度だと言っても良い。

 が、日馬富士の中では、それらはひとつながりの所作の中の別の局面に過ぎなかったのかもしれない。

 われわれの中でも、「過労死に至る過酷な残業」と「自分のノルマを果たすために精一杯頑張ること」は、全く別のことだという建前になっている。

 が、働く者の目に、「一心に全力を尽くして働くこと」と「過労死に至るまで残業を繰り返すこと」の間の境界線が、常に明らかに見えているのかというと、必ずしもそうだとは言い切れないと思う。

 横綱として、日馬富士に求められていたモラルは、彼の目から見れば、同化しようと一励めば励むほど、結果としてその規範から逸脱してしまうタイプの、極めてわかりにくいスタンダードだったのではなかろうか。

 厳しく指導しなければならないが、殴ってはいけない。
 いや、素手で軽く殴る程度のことは土俵に生きる男が相手ならあってしかるべきところだが、道具を使って殴ってはいけない。
 すすめられた酒を断るのはもってのほかだが飲みすぎてはいけない。
 番付がすべてだが鼻にかけてはいけない。

 いったいどこの世界の人間が、こんなダブルバインドの中で正しい道を見つけることができるだろうか。

 品格も同じだ。
 何が品格でないのかは、ことあるごとに列挙されている一方で、何が品格なのかは一向に明示されない。

 どんな言動が品格から外れていて、何が品格を裏切ることになるのかについては、いちいち具体的に指摘されているものの、どんな振る舞い方が品格にかなっているのかということは、ついぞ説明されたためしがない。

 とすると、横審の爺さんたちの言う「品格」という言葉に「オレたちにとって都合の良い外国人横綱」以外の意味が宿っているものなのかどうか、私は疑わずにおれない。

 このわかりにくい規範を学び取ることのために思春期から青年期にかけての十数年間を費やしてきた1人の格闘家が、

 「日本人としての正しい振る舞い方の極意は、つまるところウチのためのスタンダードと、ソトのためのスタンダードを使い分けることだ」

 ぐらいな認識に至ったのだとして、いったい誰が横綱を責められるだろうか。

 私は、今回の出来事を「日本人の典型」を学び取ることに懸命でもあれば、その道で最優秀でもあった青年が、結果として「最も日本人らしい逸脱」をやらかした結果、日本人であることから排除された事件として記憶の底に沈めようと思っている。

 もし大相撲が立ち直りたいなら、オープンでフェアなレギュレーションを取り入れたうえで、アルファベットの「SUMO」として再出発を果たすぐらいしか道はないと思うのだが、そうなると、それは「相撲」ではなくなる。伝統も美もすっかり跡形もなく消え去ることだろう。

 もうひとつの方法として、スポーツ競技としての作り物の構えや建前をかなぐり捨てて、テレビ放送もやめて、戦前にそうであったような、マイナーな興業として、細々と伝統を繋いでいく道がないわけではない。

 そのためには、相撲協会全体が大幅に減量しなければならない。それが彼らにできるだろうか。
 いずれにせよ、大相撲の未来はあんまり明るくないと思う。

 相撲の興業を「場所」と呼ぶ習慣は、なかなか示唆的だ。
 なぜなら、場所がなくなった時、われわれは存在できなくなるからだ。
 でもまあ、なくなってみないと先のことはわからない。
 個人的には、大相撲は一度 nowhere になってみるべきだと思っている。

(文・イラスト/小田嶋 隆)
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 以下、小田嶋さんからメッセージを転載いたします。

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