「フェイスブックは始めないんですか?」
と、昨年の秋以来、何人かの知人に同じことを聞かれた。
答える代わりにオウム返しをしてみる。
「そちらは?」
「…いや。まだです」
なるほど。興味はあるけれども、踏み出せない。誰かに先鞭をつけてほしい……そういうことなら私と同じだ。臆病なオウム同士の応答。デクレッシェンドな同語反復。曲がったクチバシを持つ鳥の鳴き声。
こういう時は、粗忽者の知り合いに電話をしてみる。
「やってますよ」
思った通りだ。やっぱり手を出している。こういうものを放っておける男ではないのだ。ガチョウはガチョウ。いつも歌っている。があがあ。
「どう?」
「面白いですよ。オダジマさんもぜひ」
うむ。でもなあ。オレ、ミクシィで懲りてるし。
「アレとはずいぶん違いますよ。イトも引かないし」
イト? 意図のことか? それより、塩漬けにしてあるツイッターを再生させるのが先決かもしれない。だよな。フェイスブックは、ツイッターを軌道に乗せてからの話だ。
いや、それ以前に、ブログを再開するべきじゃないのか? いくらなんでもあんまり放置しすぎだし。
……というよりも、本当のことを言えば、ウェブ上の連載を停滞させているのが一番の問題で、そこのところのデッドロックが……と、思いは、いつもの堂々巡りをなぞりつつ、想定通りの深みにはまっていく……さよう。2010年は停滞と逡巡の一年だった。定期で動いていたのは、ほぼこの連載のみ。あとはろくに仕事をしなかった。反省せねばならない。そして、今年こそ気力を再起動させなければいけない。
年が明けてから、年長の知人とさる用事で鎌倉までご一緒した。
帰り道の雑談の中で、先方の紳士が
「今回の紅白は面白かった」
と、おっしゃられた。
ちょっと意外だった。私には少しも面白くなかったからだ。
「ツイッターを始めたからかなあ」
と、彼は言う。
「ああいうものは大勢で見ないとね」
と。なるほど。それで合点が行った。
私は、例年、紅白を見る時には2ちゃんねるの実況板を立てることにしているのだが、昨年末は、実況民の質が荒れてきている(「○○(←差別語)ざまあ」とか、「売国××氏ね」とか、そんな書き込みの比率が急増している)ことにうんざりして、単独で見たのだ。
と、どうにもつまらない。何の臨場感もない。
「バイヨンってなんだ?」
と思っても、尋ねる相手がいない。咳をしても一人。家族の者は各々の部屋でそれぞれの番組を見ている。あるいはスカイプ用のヘッドセットを装着して、テレビを無視している。
要するに紅白歌合戦の退潮は、番組の劣化よりも、お茶の間の衰退により深く起因していたということだ。送り手の問題ではない。受け手の側の問題だったのだ。その証拠に、ツイッターであれ匿名実況掲示板であれ、画面のこちら側に共同視聴する「場」が共有されていれば、あれは十分に楽しい番組になるのだから。
ということは、もうすこし敷衍して、歌謡曲の衰退は、聴き手であるわれら日本人の全般的な孤立という状況に答えが求められる問題であるなのかもしれない。なんとなれば、「うた」は、元来、単独で聴くものではなく、複数の人間が共に歌う共感の言葉であるべきものだからだ、と、そんな話をしながら、私たちは横浜で別れた。うむ。私はもっとナマの会話をする機会を持つべきなのかもしれない。
以来、ツイッターの本格起動を真剣に考えはじめた。
で、外堀を埋めるべく、周囲に宣言したりもした。
「今年は、ツイッターをバリバリ発信しますよ」
と。私は、放っておくとどこまでも引きこもってしまうタチだ。これではいけない。社会復帰をしなければならない。せめてネットの上だけでも。
……で、1月27日現在、私はまだ一言もツイートしていない。どんだけグズなんだ? オレは。
今回は、フェイスブックのアカウントを作って、しばらく動かしてみた上で感想を書くつもりでいた。
なのに、いまだにアカウント以前のところにいる。
困ったことだ。つい言った くちびる凍る 夜寒かな。こんなことでフェイスブックを立てられるはずがないではないか。
というわけで、ここはひとつ、あらためてコミュニケーションについて考えてみようと思う。
聞き飽きたと思う向きもあるかもしれない。
でも、これは、とても大切なポイントなのだ。色々な角度から考察してみる必要がある。インターネットは、われわれの対人能力を増幅するのか、それとも退化させるのか。一度真剣に見つめ直してみなければならない。
学生は、ミクシィとツイッターを複合的かつ重層的に使い分けている。チャットやスカイプを併用している場合もある。それらすべてを同時多発的に立ち上げながらレポートを書いていたりもする。で、携帯のメール着信音が鳴れば、即座にレスを返す。バネ仕掛けの人形みたいに。
どうかしてるんじゃないか?
と、ハタから見ている大人はそう思う。が、友達の数が多い以上、彼等がネットと携帯に依存するのは仕方のないなりゆきなのだ。
学生には、大量の友達がいる。量的にも質的にも、そのボリュームはわれわれ社会人がかかえている人脈とは比較にならない。クラスの友人、サークルの同僚、先輩や後輩、ノートを借りるだけの知り合い、コンパ要員、チケットを売りにくる同窓生、友人の友人、元彼の先輩の妹、元カノの元彼に付いていたストーカー……いや、エイズの話をしているのではない。あのACジャパン(旧公共広告機構)のエイズ予防啓発CM(「元彼の元カノの元彼の元カノの……」という平板なナレーションが延々と続く中で、無表情な少女たちがカメラを見返している不気味な作品)は、HIVウィルス拡散が、若い世代の性的放縦に起因する印象を広めるべく制作された悪質なプロパガンダだった(と私は考えている)が、いまここで提起しているのはそんな話題ではない。私は、コミュニケーションを加速するツールを手にした若い人たちが、オーバーワークに陥っているのではなかろうか、というそのことを心配している。
新幹線が高速化したおかげで、日帰り出張が増えたというのはよく聞く話だが、仮に立体ファクスが実用化されたら、下っ端の営業マンは、おそらく、毎朝1回ずつ大阪営業部に伝送されることになる。と、大阪出張が前日泊と食い倒れ観光込みのお楽しみ業務であった時代のアナログ社員と比べて近未来の立体ファックスデリバティブ社員は、明らかな労働強化を強いられていることになる。
同様にして、授業の合間の15分の休み時間に15通のメールを確認し、40人のフォロワーのツイートを追い、30人のマイミクのボイスをチェックしている平成23年の大学1年生は、不当なコミュニケーション依存に向けて駆り立てられている。彼が15分の間に交換しているコミュニケーションの総量は、インターネット維新以前の旧石器大学生が丸一日かけて積み上げていた会話量を凌駕しているはずだ。が、その1年生は、大量のメッセージ交換をこなしながら、1日の終わりには、単に疲弊している。
世界史の教科書に載っていた1枚のポンチ絵を思い出す。
2人の男が、それぞれ背中にとんでもない量の武器を背負ってお互いににらみ合っている。第一次大戦後のヨーロッパ諸国の軍拡競争を風刺する絵柄だ。重い槍予算の語源――だと思うのだが、それはまた別の話で、つまり、過剰な競争はすべての競争参加者に不利益をもたらすという近代の呪いがこのポンチ絵の主題ということになる。競争は、ある臨界点を超えると、より深く自分を傷つけた者だけが勝利を得る倒錯の段階に到達する。
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