2024年に新書大賞を受賞した『言語の本質』(中公新書)をはじめ、『「何回説明しても伝わらない」はなぜ起こるのか?』(日経BP)、『学力喪失』(岩波新書)など続々と話題作を発表し続けている今井むつみさん。鋭い分析と考察、そしてその背後にある人間、とりわけ子どもたちの学びへの強い視線に、心引かれている人も多いのではないでしょうか。このパートでは、認知科学の中でも今井さんが重視している「学び」、そして「熟達」について理解を深めるための本を取り上げます。3回目は、『島研ノート 心の鍛え方』『熟達論』。新刊『学力喪失』についても語ります。
優れた棋士の持つ「生きた知識」とは?
私が大学の講義で「記憶」、特に「生きた知識」について話すとき、よく使うのが棋士の例です。優れた棋士は、膨大な量の棋譜が頭に入っています。そうした、すでに持っている知識と新しい知識、そして戦いのヒストリーといったものを全部、「意味があるもの」として覚え、「生きた知識」にすることが、そのまま強さにつながるからです。
私はこのことを、棋士の島朗(しま・あきら)九段に教えていただきました。島さんは、いわゆる「羽生世代」の先輩にあたる方で、初代の竜王です。若手棋士を集めた勉強会「島研」で切磋琢磨(せっさたくま)できる環境をつくり出しただけでなく、コンピューターを将棋の学習に初めて使った方としても知られています。
私と島さんとの出会いは、20年以上前に遡ります。SFC(慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス)の教員になった頃、私の研究室に入ってきた女子学生の一人が、島さんのお弟子さんだったのです。島さん自身、認知科学に興味をお持ちで研究者に協力されていたこともあり、島さんには授業に来ていただいたこともありました。その際にいただいたのが、『 島研ノート 心の鍛え方 』(講談社)です。
なぜどんな状況でも「最善な一手」を見つけられるのか?
前述のように、優れた棋士は多くの棋譜が頭に入っています。以前、島さんはテレビ番組に出演され、この「棋譜を覚える」を実演していました。ある棋譜を見せられ、それを覚えて再現する、という課題です。
この課題で島さんが棋譜を見たのはたった6秒程度。それだけで完璧に再現されていました。一方、アマチュアの上位有段者も同じ課題にチャレンジしていたのですが、その方は暗記に30秒ほどかかっていた上、間違えてもいました。
『島研ノート 心の鍛え方』では、日ごろ、トレーニングとして棋譜を覚える際には、厳選された指定図書の中から1冊選び、1局ずつ、勝った側から並べ、次に負けた側から並べ、それらを暗記して書き出し、そして再び、今度は何も見ずに並べるという方法が紹介されていました。
同じ将棋を、視点を変えて、何度もなぞっていく。「なぜこの手を指したのか」と意味を考えながらする再現は、テスト勉強のために年表を覚えようというような暗記とはまったく違います。
この本の中で、特に印象的な一節があります。
何か自分の懸案の局面で最善の方針を見つけたい、とか、ほかの棋士が指した真意を見抜きたい、など別の大きなテーマにとりかかる時には、数日がかり、何週間数ヵ月がかりで「わからないこと」を抱え、常に考え熟成させる時間が必要になる。きょう2時間あるから解決しそう、という問題は、もともと時間をかければ解決する「大したことではない」懸案にすぎないのだ。
「わからないこと」について考え続ける。そうすることで、答えが出なかったとしても、脳の奥のほうには「考える道筋」が残されるのではないか。そしてその道筋が、あるとき直観につながるのではないか。私はそんなふうに考えています。
とっさに何かを決めなければならないときに、一流とそうでない人とを分けるのは、「筋」の良しあしです。普通の人が「山勘」で、コイントスのようなレベルになってしまうところを、一流は限りなく正解に近い選択を一瞬でできる。瞬間的に最善の道筋を見つけられるのは、それまでにその道を何度もたどっているからだと思うのです。
生きた知識・死んだ知識
新著『 学力喪失 認知科学による回復への道筋 』(岩波新書)では、子どもたちがもともと持っているはずの「学ぶ力」に焦点を当てました。なぜその力が学校で発揮されないのか、「生きた知識」を身につけるにはどうしたらよいのかを考えた本です。「喪失」という言葉には、「もともとあったものが失われた」という意味を込めています。
私はこれまで、乳幼児を対象に、認知科学や発達心理学の研究をしてきました。子どもの学ぶ力の「すごさ」を誰よりも分かっています。いえ、「すごさ」という言葉では足りないかもしれません。だって、考えてみてください。子どもは教えられてもいないのに、複雑で、イレギュラーも多くて、膨大な数の単語から構成される言語を覚えて使えるようになるのです。
自ら言語を解読し、分析し、使って、間違ったら修正する。子どもの母語の習得の背景には、誰にいわれたからでもない、繰り返しの学びがあります。自ら工夫しながら学ぶことで初めて、言語が「使える知識」になるわけです。先ほど、棋士の方の学びの素晴らしさを述べましたが、乳幼児の言語の習得を見れば、勝るとも劣らない学ぶ力が備わっている。
しかし、学校の勉強でその力が十分に発揮できているかといえば疑問です。なぜ、それができないのかを、私はずっと考えてきました。
その問いを調べるための機会をいただき、開発したのが「たつじんテスト」です。これは広島県教育委員会から依頼されて作成し、実施したテストで、子どもの学習におけるつまずきを見つけるためのものです。学校で学ぶ前提となる「言葉の力」「数の直観的な理解」「思考力」があるかを見ています。
例えば「単位」という言葉の意味が分からなければ単位変換はできないし、「全体を1として考える」ことができなければ、分数は理解できません。計算はできるのに、文章題が解けない子というのは、単元ごとの理解ができない以前に、言葉の力や数の直観的な理解に乏しいことがあるのです。
では、どうすればいいのか? これを考えるためには、知識のあり方の前提に立ち戻ることが必要です。その前提とは、「知識は他の人が学び手の脳に移植することはできない」ということです。
乳幼児の母語の学びは、先ほども述べたように、子ども自らの工夫が不可欠でした。ときに間違え、失敗しながら使える知識がつくられます。
一方、多くの先生方がしているのは、教え方、あるいは説明の仕方の工夫です。つまり、そもそもできないはずの「知識を移植すること」に、一生懸命工夫して取り組もうとしているのです。
学校で頑張るのは先生方ではなく、子どもたちです。他人が入れようとした知識は、子どもたちを素通りしていきます。先生がつくったプリントを暗記するだけでは、使えない「死んだ知識」にしかならないのです。
では、どのように生きた知識を身につけていけばいいのか。キーワードは、「プレイフル・ラーニング」です。遊びを通して学ぶ。これが、子どもの学び方の解になっていくと私は考えています。
学びは、遊びから生まれる
何度かお話をさせていただいたなかで、学習観が重なると感じているのが、元陸上競技選手の為末大さんです。『 熟達論 人はいつまでも学び、成長できる 』(新潮社)で、為末さんは熟達のプロセスを「遊」「型」「観」「心」「空」の5段階に分けています。最初が「遊び」で、次が「型」と知ったときには、正直、驚きを感じました。
なぜなら、「学力喪失」から回復する方法として私が提案しているのが、まさに「プレイフル・ラーニング」だからです。プレイフル・ラーニングというのは、「遊びながら学ぶ」ということ。なぜ遊びが大事なのか、その答えが為末さんの『熟達論』の第1段階、「遊」に書かれています。
「遊」というのは、「自分で探索する」ということです。外から移植できない知識を、どのようにして得るか。それは自分で探索するしかないわけです。自分で探索した知識がある程度膨らんで、「塊」になることが必要です。「塊」ができると、「塊」を構成する要素を分析できるようになります。抽象化したり、共通性を見つけたりすることができるようになるのです。そしてそれが「型」となっていきます。
『学力喪失』で示したキーワードで、最も大切なものは「記号接地」です。それは知識が「身体に接地している」ということ。言葉を学ぶ赤ちゃんは、意味を探しながら、見つけた言葉を身体に落とし込んでいきます。そして自分の力で試行錯誤しながら、母語の知識の体系をつくり上げていくのです。
そうすることで、その言葉を「いつどのように使うのか」が、感覚的に分かるようになります。「感覚的に分かる」のは、その言葉が自分に記号接地しているからです。このような身体に接地した知識は「生きた知識」となり、新しい知識を拡張する助けになります。
一流の棋士やアスリートは、ワクワクしながら、楽しみながら、自ら主体的に取り組んでその知識を自分の身体に落とし込んできたはずです。いずれの学びの出発点も、このワクワクが伴わなくてはなりません。楽しむことで初めて、私たちはその知識を自分のものにすることができるのです。
(取材・文/黒坂真由子 写真/稲垣純也)
今井むつみ著/日経BP/1870円(税込み)