東中野氏「正論」7月号論文のここがダメ(「工作2」に関して)

工作2 南京の欧米人と日本軍を対立させる

結論からいうと、たしかに南京の欧米人と日本軍は対立しましたが、別に「中央宣伝部」の工作が原因で対立したわけではないし、因果関係はないのでは。



ここでの東中野氏の主張は2つに分けることができます。
まず前半部。


・中央宣伝部は南京残留の外国人と「お茶会と記者会見」を開いて中国軍と欧米人の交流を促進した
・これは「日本軍に対し欧米人が対立的になってもらう」ための工作だった
・「お茶会での交流」はラーベ(安全区国際委員長、ドイツ人)が中国軍将校を3人匿うという事態が発生した


なにやら、「お茶会の交流の結果」でラーベが「親中」になり、龍と周を匿うに至ったという説明の仕方ですが、これは東中野氏の「脚色」にすぎません。


実際に東中野氏が典拠とするラーベ日記を読む限り、ラーベが龍と周を匿ったことと「お茶会での交流」との相関関係は見いだせません。


龍と周は、唐将軍の代理として、安全区国際委員会との交渉窓口役を担当していました。12月12日の午後8時に龍と周はラーベのもとに避難を求めにきますが、その日の午前11時(龍、周)と午後6時(龍)にも彼らは休戦協定の件で彼らはラーベと接触しています。お茶会の有無にかかわらず、それまで交渉役として何回も会っていた経緯から、ラーベはかれらの避難を拒まなかったとみるのが最も自然な推測と思われますが、東中野氏はこれを「(中央宣伝部が企画した)お茶会がもたらした結果」に脚色したいようです。


後半です。

・国際委は、安全区からの「中国軍の軍事施設の撤去」を約束しながら実行できないでいた
・安全区への中国兵の流入を阻止できなかった
・そればかりか中国兵を安全区へ入れてしまっていた



上の2つは事実ですが、これらと『お茶会での交流」との相関関係は全く見いだせません。
むしろ12月12日の「ラーベ日記」を見る限り、(「お茶会での交流」にもかかわらず)中国軍が軍事施設を撤去させないことや兵士の滞留のため、ラーベが反中国軍感情に煮えたぎっていたことは明白です。


さて、最後の「中国兵を安全区へ入れてしまっていた」は、明らかにミスリーディングを誘う表現ですし、それはさておいても「お茶会での交流」との相関関係は認められません。


東中野氏はこう記しています。

中立地帯の安全地帯に中国兵が侵入するのも、阻止できなかった。それどころか、安全地帯に入れてしまった。中国兵を武装解除したと称して安全地帯への潜伏を、黙認ないしまたは助長させていた。

この東中野氏の表現では、国際委は「自らすすんで中国兵を安全区に潜伏させた」かのように読めますが、国際委が武装解除させた中国兵を「潜伏」させたという事実は確認されていません(後述)。
ほとんどの「潜伏」した中国の逃亡兵たちは、国際委の意に反して安全区内に流入してきたわけで、16名ほどの国際委がそれを「阻止」することは物理的に不可能でしょう。


「お茶会で中国軍と交流」したから「逃亡兵の安全区への潜伏を黙認」したわけでもなく、単に流入を防ぐすべがなかったから逃亡兵は安全区に流入したのです。


さらに、東中野氏が典拠とする「ラーベ日記」を読む限り、ラーベらは自ら「武装解除」させた600人については、日本軍に引き渡して捕虜として処遇してもらうことを意図していました(文庫版172〜173頁)
※当該箇所は後日引用予定。


別にラーベらは、武装解除させた600人を「安全区内に潜伏」させようとしていたわけではありません。


※このように検証すると、「お茶会による交流」と因果づけられるような事象を、東中野氏は一つも指摘していないことがわかります。