いまさらであるが、大ベストセラーのこの本を読んだ。
これは大阪のテレビ番組、「探偵ナイトスクープ」の企画として、日本全国のアホ、バカに類似する言葉(タワケ、ハンカクサイ、ホンジナシ等など)の分布を調べたものだ。
初代探偵室長の上岡龍太郎氏が、北野誠探偵に依頼した案件で「関東はバカと言い、関西はアホと言う、その境目はどこか」と言う依頼に答えたものだ。
北野さんが東海道線を東京から南下して、ここはバカ、ここはアホ、と聞いていけばそのうち分かるだろう。
ところが、意外と、名古屋圏がタワケだと分かった。
そこから大変な調査が始まる。
ぼくは九州、大分出身だが、アホとはまず言わない。
バカである。
つまり、大阪など関西圏はアホで、東京のバカと九州のバカに挟まれていることになる。
これはどういうことか。
もともと柳田国男が「蝸牛考(かぎゅうこう)」という論考で調べた、かたつむりの呼び方に似た分布を示すという。
他にも、タクラダという謎の言葉(中国の鹿に似た小さい動物に由来するという?)や、バカにすると言うがアホにするとは言わない、「私、バカね」とはいうけど「私、タワケね」とは言わない、などのさまざまな発見が溢れている。
いぜん勤めていた会社で、アメリカから来た同僚を道案内したときに、同じ会社の女性たちについて「彼女はprettyか、beautifulか」、「彼女はcuteか、prettyか」などと、アホな話をしたことがある。
cuteはかわいい、prettyはきれいな、beautifulは美しい、ぐらいの認識でいたのだが、話していて気付いたのは、この3つの言葉の指す範囲や意味合いが、どうも違っているということだ。
だから、翻訳というのは、原理的にできないということになる。
他の、日本語が相当できるアメリカ人の同僚に聞いたが、せんべいがカリカリしていておいしいとか、そういう言葉は、英語には、ないそうだ。
強いて言えば「crispy surface」だそうだが、それは相当語感が違う。
だから単純に、関東はバカで、関西はアホだ、と言っても、バカと言う言葉、アホという言葉の機能も違う。
どういう人がその地方でバカと呼ばれるのかも違うだろう。
この言葉の違いを新潮文庫581ページに渡って考え続ける。
結局、専門でない著者が、これらの言葉について、どの言語学者も到達していなかった結論に至るのだが、そこに至るまでの試行錯誤、脇道、こぼれ話が本当に面白い。
途中違和感を覚えたのが、沖縄の表現「フリムン」が、「触れ者(フレモノ)」=「気が触れた者」=「キチガイ」と言われていることに、著者の松本氏が強烈な違和感、嫌悪感を示すことだ。
結局、音韻の変化を分析し、周辺諸島の変化形なども分析して、フリムンの語源は触れ者ではありえず、惚れ者(ホレモノ)、何かに惚けた者という愛すべきものである、という結論に達する。
それは言語学的に正しい結論であるそうだから、結果オーライではあるけれど、どうもこのへんの考えの進め方が違和感を持った。
松本氏によれば、日本人のアホバカ表現は、本来、愚かな人をストレートに頭がおかしい、と指弾するようなものではありえず、婉曲的な、比喩的な、優しい言葉をするはずだし、するべきだと言う。
また、もし沖縄=琉球の表現が「触れ者」=「キチガイ」であったなら、放送倫理的に放送できない、とも言う。
ここが違和感があった。
まず、研究の結果どうあったか、どの説がより妥当であるかと、放送できるかできないか、商売になるかならないかというのは、本来別の問題である。
これは松本氏も認めているようで、困ったことになったなあと悩み、葛藤している。
次に、キチガイってそんなに悪い表現だろうか。
ぼくは「バカ」と言われても「アホ」と言われても腹が立つ。
でも「キチガイ」と言われたらなんか褒められたような気がするし、「まあそうかもなあ、エヘヘ」と思う。
ウルトラマンに出てくるイデ隊員が、バルタン星人と会話してみせると息巻いていて、「ぼくは、宇宙語に関してはかなりのキチガイさ」とうそぶく場面がある。
もちろん放送コードがゆるく、人権意識じたいが低かった昭和30年の話ではあるが、日常会話でも「あいつは映画キチガイだよ」とか、「お父さんは仕事のことになるとキチガイなんだから」と、あきれた気持ちと、尊敬の念を持っていうことが、いまでもある。
筒井康隆に言わせるとケモノの王という意味である「狂」という字が、そこまで悪い意味になったのは、最近の話であり、その認識が必ずしも普遍の真理であると思えない。
芸術の世界では、知性の方向が常識人と異なる人の絵画が、異様な感動を生むものとして尊ばれることが多い。
代表的には山下清がそうであり、ナイーフ・アートというジャンルもある。
ある言葉がキチガイを意味するから、だからその言葉を使う人は差別者であり、ワルイ言葉だから、楽しくテレビで放映できない、というのは、どうにも落ち着かない。
逆に、惚れ者ってそこまで良い表現だろうか。
何かに取り憑かれてぼうっとしている人、という意味であり、よくよく考えるとキチガイとあまり変わりないのではないか。
この価値観の違いが、最後まで解消されず、立派なパソコンのUSBポートが1つ使えないぐらいの居心地の悪さが残った。
そこだけは気になったけど、全体として傑作であることにかわりなく、言葉に興味のある人は、必読の書であること、間違いない。
「はるかなる言葉の旅路」という副題の意味が分かったとき、読む人はアッと驚くだろう。
初代探偵室長の上岡龍太郎氏が、北野誠探偵に依頼した案件で「関東はバカと言い、関西はアホと言う、その境目はどこか」と言う依頼に答えたものだ。
北野さんが東海道線を東京から南下して、ここはバカ、ここはアホ、と聞いていけばそのうち分かるだろう。
ところが、意外と、名古屋圏がタワケだと分かった。
そこから大変な調査が始まる。
ぼくは九州、大分出身だが、アホとはまず言わない。
バカである。
つまり、大阪など関西圏はアホで、東京のバカと九州のバカに挟まれていることになる。
これはどういうことか。
もともと柳田国男が「蝸牛考(かぎゅうこう)」という論考で調べた、かたつむりの呼び方に似た分布を示すという。
他にも、タクラダという謎の言葉(中国の鹿に似た小さい動物に由来するという?)や、バカにすると言うがアホにするとは言わない、「私、バカね」とはいうけど「私、タワケね」とは言わない、などのさまざまな発見が溢れている。
いぜん勤めていた会社で、アメリカから来た同僚を道案内したときに、同じ会社の女性たちについて「彼女はprettyか、beautifulか」、「彼女はcuteか、prettyか」などと、アホな話をしたことがある。
cuteはかわいい、prettyはきれいな、beautifulは美しい、ぐらいの認識でいたのだが、話していて気付いたのは、この3つの言葉の指す範囲や意味合いが、どうも違っているということだ。
だから、翻訳というのは、原理的にできないということになる。
他の、日本語が相当できるアメリカ人の同僚に聞いたが、せんべいがカリカリしていておいしいとか、そういう言葉は、英語には、ないそうだ。
強いて言えば「crispy surface」だそうだが、それは相当語感が違う。
だから単純に、関東はバカで、関西はアホだ、と言っても、バカと言う言葉、アホという言葉の機能も違う。
どういう人がその地方でバカと呼ばれるのかも違うだろう。
この言葉の違いを新潮文庫581ページに渡って考え続ける。
結局、専門でない著者が、これらの言葉について、どの言語学者も到達していなかった結論に至るのだが、そこに至るまでの試行錯誤、脇道、こぼれ話が本当に面白い。
途中違和感を覚えたのが、沖縄の表現「フリムン」が、「触れ者(フレモノ)」=「気が触れた者」=「キチガイ」と言われていることに、著者の松本氏が強烈な違和感、嫌悪感を示すことだ。
結局、音韻の変化を分析し、周辺諸島の変化形なども分析して、フリムンの語源は触れ者ではありえず、惚れ者(ホレモノ)、何かに惚けた者という愛すべきものである、という結論に達する。
それは言語学的に正しい結論であるそうだから、結果オーライではあるけれど、どうもこのへんの考えの進め方が違和感を持った。
松本氏によれば、日本人のアホバカ表現は、本来、愚かな人をストレートに頭がおかしい、と指弾するようなものではありえず、婉曲的な、比喩的な、優しい言葉をするはずだし、するべきだと言う。
また、もし沖縄=琉球の表現が「触れ者」=「キチガイ」であったなら、放送倫理的に放送できない、とも言う。
ここが違和感があった。
まず、研究の結果どうあったか、どの説がより妥当であるかと、放送できるかできないか、商売になるかならないかというのは、本来別の問題である。
これは松本氏も認めているようで、困ったことになったなあと悩み、葛藤している。
次に、キチガイってそんなに悪い表現だろうか。
ぼくは「バカ」と言われても「アホ」と言われても腹が立つ。
でも「キチガイ」と言われたらなんか褒められたような気がするし、「まあそうかもなあ、エヘヘ」と思う。
ウルトラマンに出てくるイデ隊員が、バルタン星人と会話してみせると息巻いていて、「ぼくは、宇宙語に関してはかなりのキチガイさ」とうそぶく場面がある。
もちろん放送コードがゆるく、人権意識じたいが低かった昭和30年の話ではあるが、日常会話でも「あいつは映画キチガイだよ」とか、「お父さんは仕事のことになるとキチガイなんだから」と、あきれた気持ちと、尊敬の念を持っていうことが、いまでもある。
筒井康隆に言わせるとケモノの王という意味である「狂」という字が、そこまで悪い意味になったのは、最近の話であり、その認識が必ずしも普遍の真理であると思えない。
芸術の世界では、知性の方向が常識人と異なる人の絵画が、異様な感動を生むものとして尊ばれることが多い。
代表的には山下清がそうであり、ナイーフ・アートというジャンルもある。
ある言葉がキチガイを意味するから、だからその言葉を使う人は差別者であり、ワルイ言葉だから、楽しくテレビで放映できない、というのは、どうにも落ち着かない。
逆に、惚れ者ってそこまで良い表現だろうか。
何かに取り憑かれてぼうっとしている人、という意味であり、よくよく考えるとキチガイとあまり変わりないのではないか。
この価値観の違いが、最後まで解消されず、立派なパソコンのUSBポートが1つ使えないぐらいの居心地の悪さが残った。
そこだけは気になったけど、全体として傑作であることにかわりなく、言葉に興味のある人は、必読の書であること、間違いない。
「はるかなる言葉の旅路」という副題の意味が分かったとき、読む人はアッと驚くだろう。