高校生の頃だが、ある夜「ビートたけしのオールナイトニッポン」を聞いていたら、面白い話があった。
記憶に頼って書くが、だいたいこんな話だ。
たけしがタケちゃんマンかなんかのロケで、京都太秦の映画村でロケをした。
歴史のある時代劇のセットで、昔の衣装を着て、むちゃくちゃ悪ふざけをしていたら、美術の人やなんかが「ああ、錦之助先生の衣装で、あんな無茶苦茶なことを」と言って涙ぐんで見ていた。
そのうち、どうにも腹がすえかねたらしい、古株のヌシみたいな人が、たけしを呼び止めて「おいお前、懐をさぐって見ろ。お守りが入っているだろう」と言う。
確かにお守りが入っている。
「そのお守りの中に、小さな金の仏像が入っているだろう」
確かに入っている。
「俺たちは、そこまでやってるんだ」
それを聞いてたけしは吹き出したと言う。
「関係ねえだろってーの。そこまでやってるからなんだってーの。誰も頼んでねえよってーの」
そんな感じの話だった。
この美術さんのような、無駄なことにいかに心血を注いでいるかを自慢する風潮は、他の国は知らないけど、日本に顕著にある。
その美術さんは、誰も見ないお守りの中身なんか作ってる暇があったら、もっと目立つところを頑張って欲しいし、それでも時間が余ったなら休んで、英気を養って欲しいと思う。
それでも時間が余ったら、映画でも美術展でも見に行って、自分の仕事に生かせないか、イメージを膨らませた方がいいのではないか。
まあたけしは、ラジオのネタができて良かった。
日本の学校の先生は、とにかく激務だというので、問題になっている。
教科の指導の他に、部活の指導、テストの採点、進路指導、生活指導など、生徒のあらゆる点について世話を焼かないといけない。
それだけならまだいいが、普通に事務のプロがやればいいような連絡作業や、書類作り、提出に忙殺されているという。
それが本当なら、そんなの、もっと得意な人がやればいい。
なんならIT化すればいい。
教育の自動化という趣旨のハッカソンもあったそうだが、なかなか合理化しないのは、やはり、昔ながらの、無駄な努力を尊ぶ風潮、ラクをしようとしたら批判する風潮があるのではないか。
学校の教師や、介護の仕事などは、薄給で激務だということが、ずいぶん長い間問題になっているのに、解決しない。
これは、これらの仕事が「聖職」、「良い人が行う尊い仕事」というイメージがついているために「お金のことでガタガタ言うのはおかしい」、「ラクをしようとするなんておかしい」という、変なスポ根主義がまかり通っているのではないだろうか。
だから生徒に対しても、部活動のスパルタ指導や、人間ピラミッド10段などという根性主義がまかり通るのではないか。
先日「フランス人と結婚している在仏日本人女性」がブログに書いていたが、日本の家庭料理は手間が掛かり過ぎだと言う。
よく、ホームステイで欧米の家庭に滞在する子供が、食事は茹でたソーセージがごろんと1個、茹で過ぎのブロッコリー、あとはパンみたいな食事を出されてびっくりするみたいな話を聞くが、それは別に日本人の子供を軽く見ているわけではなくて、庶民の普段の食事はそんなもんという地方もあるらしい。
スーパーに行くと、皮のついたイモとか、丸のままのかぼちゃとかがゴロンと売っていて、主婦の人が買っていくが、あれを皮を向いて、切って、煮て、ようやく食べられるというのは気が遠くなる。
お惣菜を買えばいいんじゃないだろうか。
さいきんはあらかじめ皮を向いて、切った野菜が小分けのパックで売っている。
あれは品質や野菜の配合がイマイチだと思う時があるが、みんなであれを買うようにすれば、どんどん品質も上がるんじゃないだろうか。
よく専業主婦の家事労働は月給いくら払うべきかという議論になるが、新井素子さんの『結婚物語』だか『新婚物語』だかに「家事なんて1日4時間ぐらいしか掛からない」とか書いてあってホーと思った。
(記憶に頼った記述です。スミマセン)
ぼくはわびしい一人暮らしであって自分であらゆることをやっているが、ぼくなんかの場合は1日2時間も掛からない。
まあ子供がいるかいないか、老人がいるかいないかで違うと思うけど、まったくの2人暮らしだったらそんなもんではないか。
ていうか、生活のスタイルで全然違うと思うのである。
新井さん自身をモデルにしたと思しい『結婚物語』の主人公は、小学館からもらったノベルティの『めぞん一刻』のトレーナーを着て結婚式場の下見に行き、婚約者に怒られる場面がある。
これほど服に好みがないと、洗濯の時間はグンと削減できるだろう。
ぼくは、夏は上はTシャツ、下はゴムのショートパンツ、冬は上はトレーナーかコットンセーター、下はジーパン(正確には「ジャージーズ」)だ。
まったくアイロンを掛ける必要がない。
洗濯機を掛けて、乾燥機を掛ければ洗濯物が終わってしまうので、洗濯の手間といえば「服を入れる」、「スイッチを入れる」、「服をしまう」だけである。
(洗濯乾燥機を使えばもっと省力化できるが、あれはからまりそうな気がして導入していない)
こういう服装だと洗濯は極限まで省力化できる。
以前はアイロン掛けに凝ったりしていたが、すぐに飽きてしまった。
ぼくはスーツ、革靴、ネクタイ、ワイシャツというものが全く苦手であり、自宅作業になってからはどんどん捨ててしまった。
何回も書いているが、なぜ日本のような東南アジアの国でイギリス紳士のコスプレをしないといけないのか、全然わからない。
ご婦人のハイヒールも分からない。
あれ、絶対体に悪いと思う。
なぜスニーカーを履かないのだろうか。
ファッションモデルでもない限り、どんな靴を履いていても仕事の内容に変わりがないと思うのである。
以前ツイッターで話題になっていたが、男のネクタイ、女のハイヒールは、「みんなが着ているから」、「自分だけ違う服装をしていたら、影で何を言われるか分からないから」着けている人が多いという。
でも別に服装のことなんか、影で何を言われていてもいいんじゃないか。
男のスーツ、ネクタイは、夏はほぼ滅んだ。
地球温暖化や、原発事故が問題になり、節電、クールビズが話題になったからである。
しかし、「就活」をしている大学生は、いまだにスーツにネクタイで会社周りをしているという。
狂気の沙汰である。
なにしろクールビズが標準になって、夏のビルの温度は高めに設定されているのである。
しかし学生はスーツにネクタイで面接に来る。
面接で顔から汗をだらだら流してたら、かえって印象悪いんじゃないだろうか。
しかしこれも「同じ成績の学生であれば、スーツにネクタイの学生と、クールビズの学生であればどっちを取るか」といういやらしい理由で、就活時期にしか着ないスーツにネクタイを着て汗だらだらで会社周りをしていると言う。
不合理の極致だ。
クールビズで涼しいと思っている会社の社員だったら、その会社の趣旨に賛同している学生を取ってしかるべきではないのか。
自分たちは涼しい思いをしているのに学生は暑くても我慢しろというのは合理的ではない。
ていうか日本の夏は暑いからクールビズでいいと思うよ。
自分の価値を高めたければ、スーツやネクタイなんかに凝るよりも、勉強して成績を上げたほうがよろしい。
スーパーのレジの人は座っていてはいけないかという議論もあった。
別に座ってていいと思う。
うちの近所の百均はおばあちゃんが店番をやっていて、座ってレジを打っているが、これで不愉快に思ったことは一度もない。
ていうかなぜこんなことが議論になるか分からない。
「同じ値段だったらどっちの方がより感じがいいか」などという人がいて瞠目した。
辛い思いをしてレジを打っている店が感じがいいなんて少しも思わない。
しょうじき、変な感覚だ。
時代劇の衣装に「お守り」なんかいらないと思う。
野菜を切るところから何時間も掛けて料理をする必要はないんじゃないか。
普段着はトレーナーとジーパンで、アイロンなんかいらないと思う。
ネクタイやハイヒールで苦しい思いをしないでいいと思う。
レジは座って打てばいい。
要するに、常識を捨て、生活の要求水準を下げて、もっとラクをしたほうがいい。
同じ成果なら手を抜いて、浮いた労力、時間は休んだり、他のことをした方がいい。
別にまじめにやるな、ダラダラしろと言っているわけではない。
マンションの杭打ちとか、ちゃんとしなければならないところはちゃんとしなければいけない。
そこは全力でちゃんとすべきだ。
そのためにも、余計なところに力を入れるなということだ。
合理的にいきましょう。
たけしがタケちゃんマンかなんかのロケで、京都太秦の映画村でロケをした。
歴史のある時代劇のセットで、昔の衣装を着て、むちゃくちゃ悪ふざけをしていたら、美術の人やなんかが「ああ、錦之助先生の衣装で、あんな無茶苦茶なことを」と言って涙ぐんで見ていた。
そのうち、どうにも腹がすえかねたらしい、古株のヌシみたいな人が、たけしを呼び止めて「おいお前、懐をさぐって見ろ。お守りが入っているだろう」と言う。
確かにお守りが入っている。
「そのお守りの中に、小さな金の仏像が入っているだろう」
確かに入っている。
「俺たちは、そこまでやってるんだ」
それを聞いてたけしは吹き出したと言う。
「関係ねえだろってーの。そこまでやってるからなんだってーの。誰も頼んでねえよってーの」
そんな感じの話だった。
この美術さんのような、無駄なことにいかに心血を注いでいるかを自慢する風潮は、他の国は知らないけど、日本に顕著にある。
その美術さんは、誰も見ないお守りの中身なんか作ってる暇があったら、もっと目立つところを頑張って欲しいし、それでも時間が余ったなら休んで、英気を養って欲しいと思う。
それでも時間が余ったら、映画でも美術展でも見に行って、自分の仕事に生かせないか、イメージを膨らませた方がいいのではないか。
まあたけしは、ラジオのネタができて良かった。
日本の学校の先生は、とにかく激務だというので、問題になっている。
教科の指導の他に、部活の指導、テストの採点、進路指導、生活指導など、生徒のあらゆる点について世話を焼かないといけない。
それだけならまだいいが、普通に事務のプロがやればいいような連絡作業や、書類作り、提出に忙殺されているという。
それが本当なら、そんなの、もっと得意な人がやればいい。
なんならIT化すればいい。
教育の自動化という趣旨のハッカソンもあったそうだが、なかなか合理化しないのは、やはり、昔ながらの、無駄な努力を尊ぶ風潮、ラクをしようとしたら批判する風潮があるのではないか。
学校の教師や、介護の仕事などは、薄給で激務だということが、ずいぶん長い間問題になっているのに、解決しない。
これは、これらの仕事が「聖職」、「良い人が行う尊い仕事」というイメージがついているために「お金のことでガタガタ言うのはおかしい」、「ラクをしようとするなんておかしい」という、変なスポ根主義がまかり通っているのではないだろうか。
だから生徒に対しても、部活動のスパルタ指導や、人間ピラミッド10段などという根性主義がまかり通るのではないか。
先日「フランス人と結婚している在仏日本人女性」がブログに書いていたが、日本の家庭料理は手間が掛かり過ぎだと言う。
よく、ホームステイで欧米の家庭に滞在する子供が、食事は茹でたソーセージがごろんと1個、茹で過ぎのブロッコリー、あとはパンみたいな食事を出されてびっくりするみたいな話を聞くが、それは別に日本人の子供を軽く見ているわけではなくて、庶民の普段の食事はそんなもんという地方もあるらしい。
スーパーに行くと、皮のついたイモとか、丸のままのかぼちゃとかがゴロンと売っていて、主婦の人が買っていくが、あれを皮を向いて、切って、煮て、ようやく食べられるというのは気が遠くなる。
お惣菜を買えばいいんじゃないだろうか。
さいきんはあらかじめ皮を向いて、切った野菜が小分けのパックで売っている。
あれは品質や野菜の配合がイマイチだと思う時があるが、みんなであれを買うようにすれば、どんどん品質も上がるんじゃないだろうか。
よく専業主婦の家事労働は月給いくら払うべきかという議論になるが、新井素子さんの『結婚物語』だか『新婚物語』だかに「家事なんて1日4時間ぐらいしか掛からない」とか書いてあってホーと思った。
(記憶に頼った記述です。スミマセン)
ぼくはわびしい一人暮らしであって自分であらゆることをやっているが、ぼくなんかの場合は1日2時間も掛からない。
まあ子供がいるかいないか、老人がいるかいないかで違うと思うけど、まったくの2人暮らしだったらそんなもんではないか。
ていうか、生活のスタイルで全然違うと思うのである。
新井さん自身をモデルにしたと思しい『結婚物語』の主人公は、小学館からもらったノベルティの『めぞん一刻』のトレーナーを着て結婚式場の下見に行き、婚約者に怒られる場面がある。
これほど服に好みがないと、洗濯の時間はグンと削減できるだろう。
ぼくは、夏は上はTシャツ、下はゴムのショートパンツ、冬は上はトレーナーかコットンセーター、下はジーパン(正確には「ジャージーズ」)だ。
まったくアイロンを掛ける必要がない。
洗濯機を掛けて、乾燥機を掛ければ洗濯物が終わってしまうので、洗濯の手間といえば「服を入れる」、「スイッチを入れる」、「服をしまう」だけである。
(洗濯乾燥機を使えばもっと省力化できるが、あれはからまりそうな気がして導入していない)
こういう服装だと洗濯は極限まで省力化できる。
以前はアイロン掛けに凝ったりしていたが、すぐに飽きてしまった。
ぼくはスーツ、革靴、ネクタイ、ワイシャツというものが全く苦手であり、自宅作業になってからはどんどん捨ててしまった。
何回も書いているが、なぜ日本のような東南アジアの国でイギリス紳士のコスプレをしないといけないのか、全然わからない。
ご婦人のハイヒールも分からない。
あれ、絶対体に悪いと思う。
なぜスニーカーを履かないのだろうか。
ファッションモデルでもない限り、どんな靴を履いていても仕事の内容に変わりがないと思うのである。
以前ツイッターで話題になっていたが、男のネクタイ、女のハイヒールは、「みんなが着ているから」、「自分だけ違う服装をしていたら、影で何を言われるか分からないから」着けている人が多いという。
でも別に服装のことなんか、影で何を言われていてもいいんじゃないか。
男のスーツ、ネクタイは、夏はほぼ滅んだ。
地球温暖化や、原発事故が問題になり、節電、クールビズが話題になったからである。
しかし、「就活」をしている大学生は、いまだにスーツにネクタイで会社周りをしているという。
狂気の沙汰である。
なにしろクールビズが標準になって、夏のビルの温度は高めに設定されているのである。
しかし学生はスーツにネクタイで面接に来る。
面接で顔から汗をだらだら流してたら、かえって印象悪いんじゃないだろうか。
しかしこれも「同じ成績の学生であれば、スーツにネクタイの学生と、クールビズの学生であればどっちを取るか」といういやらしい理由で、就活時期にしか着ないスーツにネクタイを着て汗だらだらで会社周りをしていると言う。
不合理の極致だ。
クールビズで涼しいと思っている会社の社員だったら、その会社の趣旨に賛同している学生を取ってしかるべきではないのか。
自分たちは涼しい思いをしているのに学生は暑くても我慢しろというのは合理的ではない。
ていうか日本の夏は暑いからクールビズでいいと思うよ。
自分の価値を高めたければ、スーツやネクタイなんかに凝るよりも、勉強して成績を上げたほうがよろしい。
スーパーのレジの人は座っていてはいけないかという議論もあった。
別に座ってていいと思う。
うちの近所の百均はおばあちゃんが店番をやっていて、座ってレジを打っているが、これで不愉快に思ったことは一度もない。
ていうかなぜこんなことが議論になるか分からない。
「同じ値段だったらどっちの方がより感じがいいか」などという人がいて瞠目した。
辛い思いをしてレジを打っている店が感じがいいなんて少しも思わない。
しょうじき、変な感覚だ。
時代劇の衣装に「お守り」なんかいらないと思う。
野菜を切るところから何時間も掛けて料理をする必要はないんじゃないか。
普段着はトレーナーとジーパンで、アイロンなんかいらないと思う。
ネクタイやハイヒールで苦しい思いをしないでいいと思う。
レジは座って打てばいい。
要するに、常識を捨て、生活の要求水準を下げて、もっとラクをしたほうがいい。
同じ成果なら手を抜いて、浮いた労力、時間は休んだり、他のことをした方がいい。
別にまじめにやるな、ダラダラしろと言っているわけではない。
マンションの杭打ちとか、ちゃんとしなければならないところはちゃんとしなければいけない。
そこは全力でちゃんとすべきだ。
そのためにも、余計なところに力を入れるなということだ。
合理的にいきましょう。