昔、南伸坊氏が書いていた文章の内容で、印象に残ったものがあった。
『写真時代』か『ウィークエンドスーパー』のような白夜書房の雑誌か、『ビックリハウス』だったと思う。
『写真時代』か『ウィークエンドスーパー』のような白夜書房の雑誌か、『ビックリハウス』だったと思う。
南さんはオニギリのような顔の形をしていて、子供の頃イジメの対象になっていた。
「おーにぎり、おーにぎり」という、今で言う「コール」をされる。
これをされると何も反撃できなくなってしまう。
ある日、自分をいじめている子供のグループが、別の子供をいじめているのを見た。
それは貧乏な家の女の子で(記憶があいまいであるが)「貧乏人、貧乏人」というコールを受けていた。
それで、南氏は正義感から、やめろよ、的なことを言った。
すると、攻撃の矛先が南氏に移り、例によって「おーにぎり、おーにぎり」というコールが始まった。
でもちょっとおかしいことがあった。
なんとさっきまでいじめられていた女の子までが、甲高い声で「おーにぎり、おーにぎり」というコールに参加していたのである。
加害者に回っていたわけだ。
南さんはこのとき「差別というものの本質が分かった」そうだ。
イジメは、加害者の子にも、「自分が加害者を降りたら、被害者に回ってしまう」という無意識の恐怖心がある。
つまり、イジメというシステムを容認し、強化することで、自分の立場が守れるという錯覚がある。
だからなくならない。
最近話題になった運動部の体罰、シゴキの問題もそうだ。
「自分がいま下級生として受けている苦しみ、屈辱に耐えきれれば、上級生になったときに下級生をいじめることでチャラに出来る」という変な考えがある。
そして晴れて上級生になったときに「自分が受けた苦しみ、屈辱を返してやる」と思うわけだ。
シゴキは継承され、連鎖するのである。
日本ボクシングの世界で、6人の世界チャンピオンを育てた名伯楽エディ・タウンゼントさんは、初めて訪れた日本のジムに「竹刀」が置いてあるのを見て「アレ捨ててよ。アレあったら僕教えないよ! 牛や馬みたいに叩かなくてもいいの! 言いたいこと言えば分かるんだよ!?」、「リングの上で叩かれて、ジムに帰って来てまた叩かれるのですか?ワタシはハートのラブで選手を育てるネ」と言ったそうだ。(Wikipediaより)
1962年の話である。
嫁姑の関係も同じである。
知り合いの女性は、付き合っている男性の家を訪ねたとき、男性の母親にガッツリ家事と家業、男性の父親や家に出入りする職人のお酒汲みをやらされて、「私も10年は我慢したんだから、あんたも頑張りなさい」的なことを言われたそうだ。
びっくりして家に帰り、両親に相談して付き合いをお断りしたそうだ。
この場合は女性側に新世代の常識があり、断るだけの力があって良かった。
素直に受け入れて「10年我慢」したケースも多かろう。
『世界一受けたい授業』という番組で、貧しい国のチャイルドワークの問題を取り上げていた。
その国の子供は学校に行かされず、豊かな人のメイドや、劣悪な工場労働をやって暮らしている。
NGOの組織が入って問題視し、禁止しようと動いている。
しかし子供の親たちは「自分たちも小さいころ、働いて親を助けてきた」と言う。
それがその国のルールだから、と言わんばかりだ。
しかしそれでは子供は学校に行かないから、社会は発展せず、貧しいままだ。
すると子供はいつまでも児童労働を続けなければならない。
これまで書いたことは「学校のいじめ」、「運動部のシゴキ」、「嫁姑の関係」、「貧しい国の児童労働」という、特殊な環境におけるいかにもな事例であって、現代の文明社会や都市で暮らしている人には関係ないと思われるかもしれない。
しかし、ブラック企業での度を越した強化労働や、研修会などで忠誠を誓わせるやり方などは、このいじめの構造が同根にあると思う。
人間は過酷な状況におかれるとその状況を容認してしまう。
そしてその状況を脱すると、「借り」を返してもらうために、加害者の立場に回って新入りをしごいてしまうのだ。
それは「そうやって自分も育ってきた」、「自分のように後輩も育ってもらいたい」という「良かれと思っている気持ち」があるはずだ。
なんなら「日本社会はそうやって発展を続けてきた」とさえ思っているかもしれない。
そう思おうとして、思い込んでいるのだ。
それは、「自分が過去行ってきたおこないを否定したくない」という気持ちに発するものだ。
では、連鎖を断ち切るには、日本ボクシングを変えたエディさんのような強力なリーダーがいなければいけないだろうか。
ぼくは、どんな組織でも、子供でも改革は可能であると思う。
今年の2月、新潟の中学校で、学校に伝わる「変なルール」をやめるように、生徒会が立ち上がったことが話題になった。
上級生も、下級生も、本当はイヤだと思っているのだ。
だが、あまりにも長く続くと、状況に支配されてしまい、依存してしまって、「ルールをやめたら大変なことが起こる」と思ってしまう。
ルールがなくても問題はない。
誤解を解けばいいのである。
知り合いの女性は、体が弱い娘の負担を軽くするために、ランドセルの廃止(もっと軽くて安価なリュックサックでもいいことにする)をPTAで訴えたが、古株の会員たちの猛反発によって一蹴されたそうだ。
「ランドセルをやめると、大変なことがおきますよ!」と会長に言われて怖かったそうだ。
べつにランドセルを背負っていない子供なんて世界中(日本にも)どこにでもいる。
それが原因で大変なことが起こったという話も聞かないのである。
新潟の中学生に出来たことが、このPTAの老人たちに出来ないことはあるまい。
「おーにぎり、おーにぎり」という、今で言う「コール」をされる。
これをされると何も反撃できなくなってしまう。
ある日、自分をいじめている子供のグループが、別の子供をいじめているのを見た。
それは貧乏な家の女の子で(記憶があいまいであるが)「貧乏人、貧乏人」というコールを受けていた。
それで、南氏は正義感から、やめろよ、的なことを言った。
すると、攻撃の矛先が南氏に移り、例によって「おーにぎり、おーにぎり」というコールが始まった。
でもちょっとおかしいことがあった。
なんとさっきまでいじめられていた女の子までが、甲高い声で「おーにぎり、おーにぎり」というコールに参加していたのである。
加害者に回っていたわけだ。
南さんはこのとき「差別というものの本質が分かった」そうだ。
イジメは、加害者の子にも、「自分が加害者を降りたら、被害者に回ってしまう」という無意識の恐怖心がある。
つまり、イジメというシステムを容認し、強化することで、自分の立場が守れるという錯覚がある。
だからなくならない。
最近話題になった運動部の体罰、シゴキの問題もそうだ。
「自分がいま下級生として受けている苦しみ、屈辱に耐えきれれば、上級生になったときに下級生をいじめることでチャラに出来る」という変な考えがある。
そして晴れて上級生になったときに「自分が受けた苦しみ、屈辱を返してやる」と思うわけだ。
シゴキは継承され、連鎖するのである。
日本ボクシングの世界で、6人の世界チャンピオンを育てた名伯楽エディ・タウンゼントさんは、初めて訪れた日本のジムに「竹刀」が置いてあるのを見て「アレ捨ててよ。アレあったら僕教えないよ! 牛や馬みたいに叩かなくてもいいの! 言いたいこと言えば分かるんだよ!?」、「リングの上で叩かれて、ジムに帰って来てまた叩かれるのですか?ワタシはハートのラブで選手を育てるネ」と言ったそうだ。(Wikipediaより)
1962年の話である。
嫁姑の関係も同じである。
知り合いの女性は、付き合っている男性の家を訪ねたとき、男性の母親にガッツリ家事と家業、男性の父親や家に出入りする職人のお酒汲みをやらされて、「私も10年は我慢したんだから、あんたも頑張りなさい」的なことを言われたそうだ。
びっくりして家に帰り、両親に相談して付き合いをお断りしたそうだ。
この場合は女性側に新世代の常識があり、断るだけの力があって良かった。
素直に受け入れて「10年我慢」したケースも多かろう。
『世界一受けたい授業』という番組で、貧しい国のチャイルドワークの問題を取り上げていた。
その国の子供は学校に行かされず、豊かな人のメイドや、劣悪な工場労働をやって暮らしている。
NGOの組織が入って問題視し、禁止しようと動いている。
しかし子供の親たちは「自分たちも小さいころ、働いて親を助けてきた」と言う。
それがその国のルールだから、と言わんばかりだ。
しかしそれでは子供は学校に行かないから、社会は発展せず、貧しいままだ。
すると子供はいつまでも児童労働を続けなければならない。
これまで書いたことは「学校のいじめ」、「運動部のシゴキ」、「嫁姑の関係」、「貧しい国の児童労働」という、特殊な環境におけるいかにもな事例であって、現代の文明社会や都市で暮らしている人には関係ないと思われるかもしれない。
しかし、ブラック企業での度を越した強化労働や、研修会などで忠誠を誓わせるやり方などは、このいじめの構造が同根にあると思う。
人間は過酷な状況におかれるとその状況を容認してしまう。
そしてその状況を脱すると、「借り」を返してもらうために、加害者の立場に回って新入りをしごいてしまうのだ。
それは「そうやって自分も育ってきた」、「自分のように後輩も育ってもらいたい」という「良かれと思っている気持ち」があるはずだ。
なんなら「日本社会はそうやって発展を続けてきた」とさえ思っているかもしれない。
そう思おうとして、思い込んでいるのだ。
それは、「自分が過去行ってきたおこないを否定したくない」という気持ちに発するものだ。
では、連鎖を断ち切るには、日本ボクシングを変えたエディさんのような強力なリーダーがいなければいけないだろうか。
ぼくは、どんな組織でも、子供でも改革は可能であると思う。
今年の2月、新潟の中学校で、学校に伝わる「変なルール」をやめるように、生徒会が立ち上がったことが話題になった。
1年生は派手なバッグや靴下は禁止。下級生は一部のトイレしか使えない――。校則にはないが、生徒の間で引き継がれてきた学校の「裏ルール」をなくそうと、新潟県胎内市立中の生徒会が1年間、アンケート調査や全校討議などを行ってきた。生徒たちは理不尽な上下関係を強いる「悪習」を断ち切ろうと、正面から向き合っている。これは民主主義の手本のような話で、大人も、ブラック企業の社員も格闘技の強化選手も見習った方がいい。
生徒会副会長を務めた3年生の女子生徒(15)は、小学生の頃に同中の裏ルールを耳にした。「守らないと、靴の中に給食のジャムを入れられるらしいよ」。おかしいと感じながら1年以上守ってきたが、「自分が嫌だったことを後輩にさせたくない」と、生徒会役員選挙で「裏ルールの撤廃」を公約に掲げて当選した。他の7人の生徒会メンバーも賛同し、撤廃に向けた活動が始まった。
1学期は、どんな裏ルールがあるか、裏ルールはあってもいいかを全校生徒にアンケートで問い掛けた。回答のあった120人のうち、99人は「ない方がいい」とし、「快適に過ごしたい」などを理由とした。3年生からも「自分が1、2年の時もない方がいいと思っていた」との回答があった。一方で、19人は「あった方がいい」と答え、「自分たちもやってきた」「今までそれで成り立ってきた」などを理由に挙げた。
生徒会は朝会で「裏ルールのことをみんなで考えよう」と訴える一方、市内の小学6年生と中学1年生全員が参加する集会でも「真剣に取り組んでいる。小学生の皆さんは安心して入学して」と呼び掛けた。
12月には教職員を交えた全校集会を開き、裏ルールをなくすため、全校レクリエーションを開くなどの改善案も生徒から受けた。集会後のアンケートでは「裏ルールがあった方がいい」は6人に減少。「上級生が裏ルールにこだわっていないことが分かり安心した」などの感想が上がった。(後略)
理不尽な「裏ルール」なくそう…中学生徒会(2013年2月14日 読売新聞)
上級生も、下級生も、本当はイヤだと思っているのだ。
だが、あまりにも長く続くと、状況に支配されてしまい、依存してしまって、「ルールをやめたら大変なことが起こる」と思ってしまう。
ルールがなくても問題はない。
誤解を解けばいいのである。
知り合いの女性は、体が弱い娘の負担を軽くするために、ランドセルの廃止(もっと軽くて安価なリュックサックでもいいことにする)をPTAで訴えたが、古株の会員たちの猛反発によって一蹴されたそうだ。
「ランドセルをやめると、大変なことがおきますよ!」と会長に言われて怖かったそうだ。
べつにランドセルを背負っていない子供なんて世界中(日本にも)どこにでもいる。
それが原因で大変なことが起こったという話も聞かないのである。
新潟の中学生に出来たことが、このPTAの老人たちに出来ないことはあるまい。