続・故郷とは何か・・・・異郷と故郷

2007-08-04 22:20:37 | 居住環境
[註記追加:8月6日8.42AM]

 昨日紹介した『農村から都市への人口流出』は、岩本由輝氏の論説『故郷・離郷・異郷』の途中の章で、冒頭、つまりこの論説の出だしは、『近世欠落移民にとっての故郷』。岩本氏が調べ上げた一欠落農民の一生を基に、故郷とは何か、論じた一章である。

 「欠落」は「かけおち」と読む。
 近世、特に江戸時代、庶民が他郷へ逃げ失せること、をこう呼び、現在の失踪、出奔に相当すると言ってよい。
 ここでも、少し長いが、全文紹介する。そこで描かれている話は、小説のような実話である。読みやすいように、段落は変えてある。

  註 以下の文章内の地名は、著者執筆時のもの。
    先般の市町村合併で、変更になっている場合もあると思われる。



 一八八五年(明治一八)三月末、福島県標葉郡:しねは・ぐん:野上村下野上:しものがみ(現双葉郡大熊町下野上)から妻と二人で兵庫県と岡山県のそれぞれの故郷に向けて旅に出た男がいる。池田七兵衛といい、当年五〇歳であった。七兵衛は、一八五二年(嘉永五)、一七歳のとき、但馬養父郡:たじまやぶぐん:建屋村:たきのやむら(現兵庫県養父郡養父町建屋)から陸奥中村藩の標葉郡刈野村立野(現福島県双葉郡浪江町刈野)に欠落(かけおち)という形で移住してきた十一戸の非合法移民(註参照)の家族の一人であった。

 彼は移住の旅の途中および到着直後に両親を相次いで亡くしてしまったが、間もなく縁あって野上村の素封家(そほうか)の養子となり、そこの一人娘と一緒になる。これが彼の最初の妻であるが、その死後、備前上道郡:じょうとうぐん:神下村:こうしたむら(現岡山市神下)からやはり欠落してきた移民の女性と再婚する。彼の故郷を訪ねる旅に同行したのは、この二度目の妻である(岩本由輝『浄土真宗信徒移民の経路についての一考察』一九八八年 「山形大学紀要 19-1)。

原 註
 陸奥中村藩では、近世後期における人口減少に対応するために、浄土真宗大谷派および本願寺派という教団組織の手を借りて、一八一三年(文化一〇)以降、主として北陸地方の欠落農民を移民として導入している(岩崎敏夫『本邦小祠の研究―民間信仰の民俗学的研究』一九六三年)。
 浄土真宗の教団組織を利用したこのような移民導入は、一七九三年(寛政五)、常陸笠間藩によって先鞭をつけられたが、中村藩では、幕末までに北陸地方のみならず、西日本各地からおよそ三〇〇〇戸の移民を招致している(「移住と開発の歴史―ムラの形成と変貌」『日本民俗文化大系6:漂泊と定着―定住社会への道』 一九八四年 小学館)。
 浄土真宗教団は、幕末に蝦夷地、近代になってから北海道、ついでハワイ、アメリカ合衆国、カナダ、ブラジルなどへの移民にかかわりをもつが、近世後期の笠間藩や中村藩でみられた事例はその前史をなすものである。なお、一七九三年(寛政五)以降、北関東幕領のいくつかの代官所管内で行なわれた他幕領からの移民導入の場合にも、非合法ではないが、浄土真宗の教団組織が具体的にかかわっている(秋本典夫『北関東下野における封建権力と民衆』一九八一年 山川出版社)。

 刈野村の浄土真宗本願寺派光明寺の檀家である七兵衛夫妻は、その所持していた「御判帳(ごはんちょう)」によれば、一八八五年(明治十八)四月一日に福島県東白川郡棚倉町の大谷派(現単立)蓮生寺の御判を受けたのを皮切りに、八月二七日に京都の浄土宗知恩院にいたるまで、四ヵ月をかけて親鸞廿四輩(にじゅうよはい)遺跡寺院の多い北関東から東京に入り、さらに東海道筋の浄土真宗寺院を中心に親鸞にゆかりのある一二二の寺院と二つの神社を順拝していることがわかる(岩本由輝 前掲「移住と開発の歴史」一九八四年)。おそらく夜になれば、これらの寺院に泊めてもらい、掃除などの奉仕をすることによって食事を供されたのであろうが、そうしたことはかつて移民のさいの旅において現実に行なわれたことだろう。

 二人の旅はもちろん信仰にもとづくものであった。しかし、単にそれだけではなく、自分たちが移民してきたルートを逆にたどることによって、欠落(かけおち)という形で離郷したとき、再び訪れることはあるまいと覚悟していた故郷に帰るための儀式のようなものが感じられる。移民のときと異なり、逃げ隠れせずに自由に旅のできる時代になっていたとはいっても、徒歩での四ヵ月の旅は決して楽なものではなかった。八月二七日、妻が京都で疲労のために倒れ、おそらく予定していたであろう、そこから先の順拝を続けることができなくなった。七兵衛はとりあえず彼女を神下村のその兄の家まで連れて行く。

 このあと、七兵衛は、一人で念願の故郷である建屋村(たきのや・むら)に行く。そして、菩提寺の本願寺派西念寺で先祖の墓を確認することができたが、村内に知己はいなかった。建屋村からは七兵衛たちと一緒に十一戸が刈野村に移民していたわけであるし、そのとき残った八戸も間もなく欠落(かけおち)していたのである(『大熊町史』一巻)。
 彼が生れた屋敷にも隣近所にも住人はいたが、知らない顔ばかりであった。それらの住人たちは彼をきわめて冷淡に扱ったようである。故郷の現実は、彼が心に描いていたものとはあまりにもかけ離れていた。そこはすでに彼にとって異郷でしかなかったのである。彼は二度と建屋村を訪れまいと決意する。

 妻の兄の家に戻った七兵衛は、それから半年あまりの間、妻の看病につとめるが、彼女は快方に向かわず、とても旅のできる状態にはならなかった。
 彼は、野上村を出てから一年後の一八八六年(明治十九)三月末、妻を兄夫妻に託して帰途に就く。彼は、帰りも近江路から北陸路の浄土真宗寺院を順拝し、会津を通って七月中旬に野上村に戻っている。
 その後、彼は野上村こそが自分の故郷であると思い定めたようで、二度と故郷に帰りたいとはいわなかったようである。建屋村のことは話題にもならなかったらしい。
 彼の子孫が彼の故郷について建屋村であると知ったのは、孫の代になって仏壇を修理したさい、そのなかに隠すようにしまわれていた「御判帳」を発見したときであった。
 なお、七兵衛の妻は、ついに彼のもとに戻ることができず、兄のもとで生涯を終えている。彼女自身にとって、それは不本意なことであったかも知れないが、彼女が故郷で最期を迎えることができたのは、そこに肉親がいたからなのである。もし兄の家がなかったら、そこは彼女にとってやはり異郷でしかなく、病いの身を横たえる場所すら与えられなかったであろう。

 七兵衛夫妻のそれぞれ異なる故郷体験のなかに、われわれはともすれば美しく語られる故郷なるものの本質を見出すことができるのではなかろうか。
 七兵衛の故郷喪失は離郷のときに始まった。しかしそのことは、彼が領主の支配からの自由と生産手段である土地への緊縛からの自由を、一時的にではあれ、獲得したことを示している。そして、このような形での農民移動が現実に全国的な規模で生じていたことは労働力の商品化を必然たらしめるものであり、資本主義成立のための前提条件をなすものであった。
 それは近世村落共同体の解体であり、人々が中世の漂泊とは異なる新たな漂泊を強いられる段階の到来を意味していたのである。(この章了)

 

 これは、先回紹介の「故郷を唄う」唱歌が現われる直前の話である。

 しかし先回紹介の「唱歌」には、何か、離郷を奨める、もっと正確に言えば、村を離れて都会の労働力になれ、そして、歳をとったら故郷へ帰れ、という「におい」がしてならない。若い人を都会へ誘い、歳をとった者たちには帰郷をすすめる(都会にいても役立たないから若者と交替してくれ)、そういう「ためにする」ものであったのかもしれない。だからこそ「美しく語られる」のだろう。

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