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《田中(義一首相)の奏上(そうじょう)はこれまでの説明とは大きく相違することから、天皇は強き語気... 《田中(義一首相)の奏上(そうじょう)はこれまでの説明とは大きく相違することから、天皇は強き語気にてその齟齬(そご)を詰問され、さらに辞表提出の意を以て責任を明らかにすることを求められる。また田中が弁明に及ぼうとした際には、その必要はなしとして、これを斥(しりぞ)けられる》(昭和4年6月27日) 田中義一叱責事件として知られる、即位間もない青年君主の苦い経験を、昭和天皇実録はこう記述する。 ■「若気の至り」 満州・奉天郊外で昭和3年6月4日に起きた張作霖爆殺事件で、田中首相は当初、関与が疑われた日本軍を厳罰処分する方針を奏上した。だが、事件をうやむやにしたい陸軍などの要求に流され、「犯人不明のまま責任者の行政処分のみを実施する旨」を奏上。それに天皇が激怒したのだ。田中首相は、5日後に内閣総辞職した。 内閣の決定に異を唱え、首相を辞任に追い込むような言動は、立憲君主としてあってはならないこと
2014/09/17 リンク