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天武・持統天皇陵 後継者争いを仕掛けたのは大海人と鵜野 「壬申の乱」の経緯は、次のようなものである... 天武・持統天皇陵 後継者争いを仕掛けたのは大海人と鵜野 「壬申の乱」の経緯は、次のようなものである。 天智10年(671)10月、病床の大王天智は弟の大海人王子(後の天武天皇)を呼び、大王位を譲ろうとするが、大海人は辞退し、大津宮を出て吉野へ。天智が没すると近江朝廷では、すでに政治に参画していた天智の長子・大友王子がその中心となった。ところが、吉野から伊賀・伊勢、そして美濃に向かった大海人が東国の兵を掌握、呼応した王族、豪族とともに近江朝廷を倒す──。大海人が吉野を発ってから大友が敗死するまで、約1カ月にわたって繰り広げられたこの戦乱は、基本的には大王位継承をめぐる争いである。 ただ本来であれば、天智亡き後、大海人の即位に議論の余地はなかった。 大王とは、群臣(まへつきみたち)が推戴するもので、親子ではなく兄から弟へと継承していくのが慣例であった。しかも歴代大王の母は、ほとんどが王族か有力
2025/01/04 リンク