駆け抜けたい伝説の途中

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【サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-】感想

サクラノ刻

 

2023年2月24日に枕より発売された、18禁恋愛アドベンチャーゲームです。『サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-』の続編にあたる作品となります。

ティザーサイトが公開されたのは2017年だったので、約6年越しの発売となったようです。凄まじい。

 

追記よりネタバレを踏まえた感想になります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ⅲ(心鈴ルート)

 

本作で唯一攻略できる生徒。その正体は宮崎みすゞという雅号を持つ、実績で言えば直哉をも越えると言っても過言ではないスーパー芸術家でした。

教師と生徒の恋愛というのは、前作との共通項を想起させるものでしたね。

 

本ルートでは教師として様々なおうちの問題を救っていくことになるので、尺度的にもそちらの印象が強くなりやすいかと思いきや、動物園での告白シーンがひときわ光っていました。

それまでの過程が良かったのもありますが、単体で切り取って見たとしても、イベントCGもBGMも台詞のテンポも素晴らしすぎました。

最高に感情移入がさせられました。あまりにも本気すぎる。

 

そしてHシーンに関してはふたなりシチュまであってびっくりでした。しかもボリューム30分近くあってみっちりです。あまりにも本気すぎる。

 

 

本ルートで意外だったのは恩田寧ちゃんの立ち位置でした。

温厚な性格からしていつか開花するダークホースのようなキャラクターかと思いきや、「才能がない」と明言された挙句、あそこまで激情に駆られる姿を見ることになるとは。あそこまで泥臭く戦う姿を見ることになるとは思いませんでした。

 

 

かわいいね

 

薄っぺらな天才は、才能が透けて見える。天才は、その才能を忘れさせる。

凡人が行き着く先は良くて才人であり、才人は凡人が故に、その才能ばかり目に付く。

まさしく圭と校長が予言していた人物こそが寧であり、そんな彼女の半生が本ルートの山場となっていました。

 

本間心鈴と恩田寧。先代から続く強い線引きによる確執も、師弟関係を通じていつの間にか解消されていました。

自分の才能のなさに嘆き、強い慟哭を見せていた恩田寧が、こうして芸術界において結果を残すということも加えて、とてもカタルシスのある展開でした。

 

 

美は主観的なものでしかなく、本質は「同意」することでも「同調」することでも「考えが同じ」ことではない。どんな遠い存在とも瞬時に繋がれることである。

心鈴とは対極的に何の取り柄もない心佐夫の絵にも確かに「こういうものでいい」と思えるような美は存在し、因果交流電燈との干渉は生まれました。

修復のできないように思われていた寧と心鈴の関係を繋いでくれたものもまた、放哉にとっては「こういうものでいい」ような美でした。

 

直哉のことを化物と評し、美に対して「呪い」「魔性」という語彙を使う放哉先生は、美ひいては芸術に対して畏怖の念を抱いており、だからこそ早期にその筆を置いてしまいました。

なぜなら『イワン・クパーラの前夜』における財宝の如く、芸術の本質は人の血、それも致死量でなければ手にすることはできない。それが放哉の考えでした。

しかし、そんな放哉を再び筆を持つ気分にさせたのが、他ならぬ恩田寧の絵でした。

才能の有無という意味では「化物」達とは歴然とした差があり、表層をなぞるだけの芸術と評されもした寧。しかし、一人の師のバックアップによって描かれた彼女の絵画は、FIRST展最高賞という財宝にいとも簡単に辿り着いたのでした。

人の血や魔性という単語からは無縁なその絵画を見た放哉は、偏に「自分の絵というものを描いてみたい」と。筆を持つのはそんな軽い気分だったのでした。

 

 

世界を震撼させた一流の芸術家から、「人を教えるのは上手い」人間に成り下がった直哉。宮崎みすゞの雅号を失った心鈴。

終わってみればこちらの尻尾を掴んでいる放哉や、校長からも畏怖されている礼次郎を相手にしておきながら、このように丸く収まったというのが独特な結末でしたね。礼次郎からは茶番のような結末と評されました。

 

しかし、一教師としての草薙直哉、そしてただの恋する少女、本間心鈴。そういう茶番があっても良いと放哉は言いました。

なぜなら描きたいから描こうとするだけの放哉と、人の親としての顔しかできなかった礼次郎の姿もまた、茶番でしかないのですから。

立場を捨てたことによって心鈴が得られたものは、空っぽで迷子の存在だった頃にも宮崎みすゞだった頃にも決して得ることのできなかった、いつまでも湧き続ける『幸福』でした。

 

 

 

 

Ⅲ(真琴ルート)

 

前作鳥谷ルートの続編であり完結編でした。

前作ではプレイヤー目線では「モンペおばはん🥶」という印象しか受けられなかった麗華が、ここまで魅力的なキャラクターにリビルドされるとは思わなかったです。

 

人は自分の力だけでは本物にはなれず、一人の力で何でもできると思うことこそ傲慢である。学生時代にそう発言していた麗華が、実はめくるめく人生の中の与えられた状況下で、最大限の努力をし続けていたというのは感慨深いものがありました。

振り返ってみると、学生時代の時点で花瓶が静流作なのはどう見ても気付いていた上、「自分が求め続けていたもの」とも言っていたんですよね。前作の長山香奈以来の印象の転換でした。

 

本シリーズは「天才」を間近で見たことによって、その人生をあらゆる意味で狂わされた人物は多いです。

というよりもそのような登場人物達が織り成す群像劇こそが、本シリーズの物語の軸となっていると感じます。夏目圭然り長山香奈然りそうなのですから。

麗華はその中でも自身の才能のなさを自覚した上でできることを探し続け、圭との関わりを経て自身の娘の幸福のことを慮るなど、ある意味では非常にスマートな生き方を選べていたと言えるかもしれません。

同じステージで活動し続けるわけでもなく、畏怖の念を抱いて忌み嫌うわけでもなく、彼女は批評家という道を選びました。空気は読めないし地頭は悪いはずなのですが……。

 

やはり山場となるイベントは、校長と静流の飲み比べ。味方になった校長の頼もしさと言ったらもう。

中でも「新しい芸術に乾杯」という台詞が最高でしたね。静流の作品への敬意が伺えながらも、勝利への確信がないと出てこない発言です。飲み比べという場とかけていることも含めてあまりにもおしゃれでした。

 

 

 

肉体関係→プロポーズという歪すぎる経緯で結ばれた直哉と真琴。お付き合いという過程をすっ飛ばしているのは言われている通りだけど、なんならこの人達キスすらしてなくないか……?

まあ、先輩教師がいる教室の中でことに興じたり、拝殿の中で野球拳を始めたりするような奴らに、常識を問うのはもはや野暮かもしれません。

 

サクラノ刻の真琴は届かない満月に手を伸ばすわけではなく、手の中の六ペンスを大切にしながら生きてきました。彼女はその人生に満足しているとは言ったものの、直哉のプロポーズを受けた際の感情の吐露は、誰よりも過去に囚われてしまっているようにも見えました。

昔のように失うことを恐れて距離を置いていたというのは、それが真に欲しているものだからという証明です。「今だって十分楽しい」というよりも、むしろ過去こそを何も手に入れなかった時代の象徴として恐れていたのでした。

幾望を満月にしようとした結果、それは既望になってしまった。彼女が過去に置き去りにしてきてしまったものは大きすぎました。

 

そんな真琴があの時失ったものを癒してやる、と言ってのけた直哉はかっこよかったですね。

直哉は決して立ち止まっていたわけではない。こうして他人の欠けてしまった月を埋めるような生き方を前向きに選べることは、圭や真琴の言うヒーロー性も関係していると思いますが、やはり彼が「草薙先生」として完成されたからかもしれません。

現在の直哉の姿は少なからず真琴と重なる部分もあったと思います。とはいえ、直哉は今の生き方を幸福と信じており、真琴のように「欠けたもの」という言い方はしていないので、そこの差異は感じられました。

 

 

 

 

â…¤

 

上記2ルートとは打って変わって、教師としての草薙直哉である前に、芸術家としての草薙直哉となる選択。

放哉に対して自身の芸術論を打ち明けてしまった直哉は、教師としての道を既に踏み外しており、寧を救うやり方を考えつくことができませんでした。

 

所謂グランドルートと言っても差し支えないのがⅤのシナリオとなりますが、とにかく熱いと感じさせられる展開が多く盛り込まれており、エンタメ作品としての完成度の高さを感じました。

前作の主要キャラクターたちが続々と再登場しては、それぞれが直哉を奔らせようと美味しい所を持っていく。

まさかの1vs1のオールスタートーナメント戦が始まり、才能・技術面では劣る人物が奇策で大番狂わせを起こしていく。

少年漫画のような王道展開の連続です。なんと言っても挙げていったらキリがないような名場面や名シーンが、怒涛のように続いていきます。

 

 

アリアの正体が里奈であることに関してはアナグラムだったのでプレイ中に気付いた方も多いと思いますが、それにしてもここまでやってくれるとは思わなかったです。

前作キャラはいずれも面白い立ち位置をしていましたが、個人的に好きなものを挙げるのであれば、川内野優美の再登場でした。

彼女は直哉世代の美術部の中でも蚊帳の外というか、もはや完全な部外者です。何故なら動機は里奈という一人の少女を愛しているだけであり、同じ場所に立つ気もなかったのですから。

 

そんな彼女の直哉に対する報復という名の、痛々しいまでの性行為。しかし、「穢す」「汚す」と言うには何もかもが遅すぎました。

結果的には優美は里奈から告白として絵画を捧げられていたわけであり、彼女の抱いた感情は的外れも良いところではありました。だらしのない生活を続け自暴自棄になった優美の、あの頃から止まってしまっていた刻を表しているようで、とても印象的な場面でした。つくづく本当に型破りなキャラクターです。

 

 

そして、屈指に心に残った場面といえば、やはり凡人代表の長山香奈が起こした大旋風です。

天才的凡人という、長山香奈でしか至れなかった境地。彼女はいつも見下している「偽物も本物もわからない」「空気を読んでいるだけ」の連中を利用した、彼女にしかできない奇策で里奈を下す快挙を成し遂げました。

 

そして、長山は遂には「神よりも強い想い」をその身に宿し、芸術家として直哉と同じステージに立つまでに至りました。

美しいものが好き、と言っていた純粋な芸術家。そんな彼女もまた草薙直哉が奔り出すことを一途に待ち続けていた人物の一人だったということが明かされました。

あのプールをキャンバスとした日以来から夢見ていた、自分と櫻の芸術家が共に筆で語り合う舞台。全てはこの場所に立つ為だったのでした。

 

 

また、本チャプターは一本道でありながらも、その中で直哉は藍先生と結ばれる未来を辿ることになります。

前作では異性として彼女と結ばれるルートは脇道として設定されたものであり、本筋からは外れているショートストーリーという位置づけという印象を受けました。

自分としても本作をプレイする前はそうした位置付けのヒロインとなることを予想していたのですが、全くそんなことはなかったです。

 

しかし、直哉が立ち止まっていた時も、こうして奔り出した時も。藍だけはただ一人直哉の傍に寄り添って、見守り続けてくれていた人物でした。

ですから直哉が再び芸術家として筆を取ったこの歴史では、直哉が藍と結ばれる運命になることは必然だったと感じました。もしかしたら解釈の分かれる展開だったかもしれませんが、自分としてはとても納得ができました。

 

 

稟は前作で圭が亡くなった直後のタイミングでプラティヌ・エポラールを受賞したことで混乱を巻き起こしましたが、あれは吹の貯蓄された力が解放されたことで起こった奇跡であり、フリッドマンと共に画策された不本意な受賞であることが判明しました。

本作は稟と雫が伯奇の力を顔料として作り上げた力がベースとなって、稟と雫から里奈と長山に伝播し、運命の舞台が作られたという筋書きでした。ゲームメイカー稟でした。

圭が死んだあの日。恋を捨て、芸術以外の全てを捨てた、命を削る誓い。全ては王子の心臓をツバメの下に届ける為だったのでした。

 

前作サクラノ詩では奇跡とは「因果・道理を捻じ曲げる力」として、同時に忌まわしいものとしても語られていました。そんな力が本作で物語の核となったのは、個人的に意外ではありましたね。

しかし、道理を捻じ曲げる力だからこそ、それは大きな痛みを伴うものでした。それこそ伝承の伯奇は耐え切れずに爆ぜてしまったほどに。

稟と雫はそんな痛みを背負いながらも、里奈と長山に力を分け与え、自身が「ラスボス」として君臨することで、直哉が圭の場所に羽ばたく為の道標を指し示しました。

だからこそ直哉は二人への感謝としてその痛みを受け入れ、彼女らと同様に背負っていく覚悟をしたのでした。

圭の始まりの土地であり、圭と直哉が交わる最後の土地で。稟と雫の気持ちに答える為であり、圭の為でした。

 

伯奇の力を利用した黒いだけの顔料と、キャンバスだけを使った、絵画の必要のない芸術。ある意味反則技のような芸術です。

しかし、それは直哉の修験者のような集中力があったからこそ宿せたもの。何よりもヒーローであり、幸福な王子であり、因果交流電燈であった直哉だからこそ、手の届いた芸術の形だったのかもしれません。

あらゆる魂がその人生を賭したことで生まれた想い。この場所に至るまでに見てきた全ての想い。それを乗せた筆こそが、草薙直哉最後の芸術でした。

 

 

 

 


 

 

 

 

まさしく前作「サクラノ詩」の完結編となる物語でした。

 

直哉にとっては十年前のムーア展における圭との勝負が、芸術の最終地点でした。

ですからその先の絵画が啓く道に進む必要はなく、たくさんの想い出の残る弓張で、ただの教員として安寧に余生を過ごしていました。

それも生き方の一つであり、幸福の一つの形です。その在り方がサクラノ詩の結末であり、本作のⅢにおける二つの個別ルートだったと思います。

 

しかし、直哉は優しすぎた。そして、周りの人間も優しすぎた。

直哉は周囲の人物に与えてきたものが大きすぎましたし、だからこそ周囲の人物は直哉と圭の為にも、全てを捧げる覚悟を持って刻を重ねていました。

だから、直哉はこうして再び奔り出した。一度も忘れたことのなかった、他ならぬ圭の背中をめがけて。

苦痛と共にある快楽。不幸と背中合わせの幸福。

ツバメとして飛び立ってしまった圭の場所に、ようやく直哉も王子としてその心臓を届けることができた。

その未来がⅤであり、サクラノ刻だったと思います。

 

 

好きなキャラクターは挙げていったらキリがないのですが、個人的に印象に残ったのは放哉おじさんと麗華おばさんです。

実は上記のⅢの個別ルートの感想は各ルートをクリアした時点で記述したものであり、彼らが目立つのはこのルートぐらいなものだろうと考えていました。実際のところはⅤの天才たちの狂宴においても、引けを取らない存在感を発揮していたと思います。

 

天才の影響を濃く受けすぎた結果、芸術を恐怖の象徴としてしか見ることができなくなったものの、「芸術は天才だけのものではない」ということを他ならぬ姪によって教えられた恩田放哉。

波乱万丈な人生の中で最大限できることを探し、圭・心鈴・果ては直哉という三人の天才の道を舗装する役割を演じるという、彼女ならではの大立ち回りをし続けた中村麗華。

本シリーズで最も光っていた凡人といえば、天才的凡人という究極的な境地まで登り詰めた、長山香奈一択だと思います。しかし、右を向いても左を向いても天才だらけの物語の中で、同じく数少ない凡人であった彼らの半生にもまた、考えさせられるものがありました。

 

既に人気投票は終わってしまいましたが、投票するならば1位麗華、2位放哉、3位直哉にしていたと思います。

ちなみに見た目だけなら心鈴が好きです。このブログの読者の方々には説明するまでもなく……。

 

 

長くなってしまいましたが、それでもやはりこの物語の全てを書き切れるものではなく、自分の「煙のような言葉」では限度があるので、このくらいにしておきます。

やはり多くの哲学を引用している物語なので、教養のない自分では理解が難しい部分も多かったです。しかし、それでもグラフィックレベルやサウンドレベルの高さ、偏にエンタメ作品としての完成度だけでも秀逸なゲームであり、自分のような人間でも楽しめる作品でした。

長山さんの言うところの、「大雑把で雑で適当でその場限りのクソすぎる連中の群れ」の一人としての言葉で表すならば、令和最高の神ゲーだったと思います。


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