リフレ論は本当にマクロ経済学の理論なのか?

最初に誤解の無いように書いておくと、本来のリフレーション理論は言うまでも無くマクロ経済学の理論である。 但し、一部のリフレ派が唱えているリフレ論の多くは本質的にはマクロ理論というより還元論と陰謀論のミックスに過ぎないというのが筆者の理解であり、以降のエントリの中の「リフレ論」はそういった「俗論的リフレ論」を指すものと理解いただきたい。

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リフレ派はその理論に向けられる批判への反論としてよく「マクロとミクロの区別がついていない」と主張するが、そもそも彼らのリフレ論はマクロ経済学の理論なのだろうか?(もちろんリフレ論も色々あるので、以降では上念氏や高橋氏等の論客がメディアやネット等で唱えるリフレ論(俗論的リフレ論?)を指すこととする)

もちろん「合成の誤謬」のようにミクロの視点で正しくてもマクロの視点ではかならずしもそうならないケースがあることは確かであるが、リフレ派が使う「マクロとミクロの区別」は少し違う気がする。

「合成の誤謬」はミクロレベルで意図していないことが、その合計であるマクロレベルでは起こりうるという話であるが、ここではミクロからマクロへとストーリーがはっきり繋がっており、ミクロとマクロが矛盾しているという事を意味しているわけではない。


ところが、例えば以前にも取り上げた高橋氏の

 耐久財と非耐久財があるとして、耐久財の個別価格が下がる時をイメージする。ベースマネーが所与の場合、非耐久財の個別価格は上がる。その理由は耐久財が安くなる分、余裕ができて非耐久財を買うからだ。こう考えると、ミクロの個別価格の変動がマクロの物価に影響を与えないこともわかるだろう。

http://diamond.jp/articles/-/10728?page=3

というリフレ論(?)は、ミクロでみた時になぜ耐久消費財を安く買えた人間がその余裕分をそのまま非耐久消費財の消費にまわし、さらにその結果としてその非耐久消費財の値段がマクロでの物価を維持する分だけ上がると断言できるのか全く見当がつかない。


ちなみにその根拠の一つはどうやら貨幣数量説と呼ばれる仮説のようであるが、マクロの仮説が正しいはずだからミクロはこうなっているはずだ、というのは本末転倒ではないだろうか?


マクロ経済学は統計熱力学に例えられることがある。 統計熱力学では記述しきれない数の各分子の全ての動きを追う代わりに各分子の動きを統計的に捉える事によって成立しているが、もちろんこの場合でも分子の動きが説明できないような理論が統計熱力学で成立することはありえない。


又、こういったリフレ論は回帰分析によって「証明」されているとの言説も多いが、回帰分析は因果関係を「証明」したりはしない。 
例えば日本の実績値でインフレ率と失業率が逆相関している(フィリップス曲線が成立している)事を持ってインフレにしさえすれば、失業率は下がるという主張が見られるが、日本の過去の実績はリフレ政策で失業率が下がるかどうかについては直接的な実証例とはならない。
そもそも「フィリップス曲線が将来にわたって維持され続けるはずだ」という主張は「日本ではスタグフレーションは起こらない」という主張を含んでいるが、どこにその様な根拠があるかについてはこれといった理論があるわけでもなさそうである。


ではこの(俗論的な)リフレ論とはなんなのかと考えれば、筆者は「還元論」ではないかと思う。


つまり経済を支えているのは貨幣なので、全て貨幣に還元して考えれば自ずと何をすべきかわかる、というのがリフレ論の根幹ではないだろうか?

その視点から見ればリフレ論は貨幣レベルへ還元すれば正しいのだから、その理論が正しいことは最初から(彼らの中では)決まっているわけであり、ミクロレベルでの矛盾に対する批判を論破する必要もないし、リフレ派の論者の間で肝心の「デフレ脱却プロセス」に食い違いがあっても気にすることはない。 何が起こるか正確に知ることは出来なくても還元的には正しいのだから最終的には良い結果が得られることは間違いないわけである。


Twitter等でリフレに関する議論を眺めていると、実際に何が起きるかについての議論が煮詰まってくると突然「貨幣量を増やせばインフレが起こせるのは明らか、そうでなければ無税国家の誕生だ!」みたいな話になるケースがあるが、これは典型的な還元主義的言説であろう。


以前にも書いたが、筆者が若い頃に最も影響を受けた本はスティーブン・ジェイ・グールドの科学エッセイ群である。 グールド氏は還元主義に懐疑・批判的であり、エッセイでもそのテーマを繰り返し書いたし、筆者もその影響を受け、還元主義には懐疑的である。

ただ、そういった個人的な嗜好は別として、還元論だから間違っているという訳では必ずしもないが、それでもやはりリフレ論が基盤としている「経済の貨幣への還元」論はおかしいと思う。


筆者は経済を広い意味での「ゲーム」と捉えているが、その場合経済を構成する最小単位は個人である。 貨幣はゲームのプレイヤーになることはできない。 

もちろんゲームを「貨幣の数量」や「インフレ率」という切り口で切り取ることによってわかることも多く、それがマネタリズムの背景になっているのだろうが、それは経済というゲームの一面を「貨幣の数量」「インフレ率」という「ものさし」で叙述できるという事に過ぎないのではないだろうか?


野球で例えるならゲームを打率や防御率などのデータから語ることはしばしば行われており、又、そうしたデータから新たな野球の戦術が考案されることも多々ある。 しかしたとえチーム打率が勝率と強い相関があるからといって、打率だけを重視して守備力を無視したチーム編成をしていてはチームの勝利はおぼつかないだろう。

チーム打率が勝率と強い相関があるのは、各チームが勝利を目的に打撃・守備・走塁の総合力で選手を選んだ結果であり、総合力が高い選手が多く居るチームは「結果として」チーム打率も高くなり、勝率も高くなるわけである。

チーム打率が高い方が勝率は上がるがチーム打率だけを重視した選手選考が勝率を上げられるかどうかについてはデータは何も語っていない。 


そういった意味では人々のインフレ期待に働きかける事を主眼とした理論(インタゲ等)についてはプレイヤーである個人を対象としたものであり、検討には値すると思う。 

只、筆者の理解ではインフレ期待への働きかけは、結局のところ「ブラフ」であり、しかもプレイヤーの多くがそれを知ってしまっているため、効果が期待できるかどうかは疑わしい。
もちろんみえみえの「ブラフ」であっても掛け金をがんがんつり上げれば、ゲームに勝てる可能性もあるかも知れないが、リスクが大きすぎる。 ブラフを織り交ぜつつも基本的にはおりるべきときにはおりるのがトータルでの勝率を上げる手段のはずである。



最後に敢えて一言付け加えるならこの「還元論」は「陰謀論」のスパイスがたっぷりと効いており、一部の人々に対しては中毒性があるようであるが、このスパイスは万人に好まれるものでは無いはずである。 

又、前エントリーで書いたようにこのような還元論的なリフレ論はスローガンないしはレトリックにすぎず、バックグラウンドとしてきちんとしたマクロ経済学理論としてのリフレーション論があるのだという指摘はありうると思うが、それならその「マクロ経済学理論としてのリフレーション論」をスローガンを信じ込んでいる人間にも明確に提示し、弊害についてもきちんと説明していくのが学者としては本来あるべき態度ではないだろうか。