SPD再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 00:17 UTC 版)
「クルト・シューマッハー」の記事における「SPD再建」の解説
戦後は西側占領地域において、SPD 再建の指導者となった。まだ占領軍によって政治結社が禁止されていた1945年5月、早くもハノーファーで地区代表に選出された。1945年10月5日から7日にかけて行われた党大会で、12年の断絶を経て SPD は正式に再建された。この大会にはイギリスにいた亡命 SPD のエーリッヒ・オレンハウアー、さらに東側のソ連占領地域からオットー・グローテヴォールも参加した。翌年ソ連の意を受けたグローテヴォールは共産党と SPD の統合を提案したが、西側 SPD は拒絶。結局東側では SPD と共産党が合同して SED となった。 一方シューマッハーは圧倒的な支持で西側 SPD の党首に選出された。シューマッハーは独裁的とも評された強力なリーダーシップで党を牽引し、党員には党議拘束に従うことを要求した。1946年、連合国軍軍政部はシューマッハーにヴュルテンベルク=バーデン州の首相になることを提案したが、影響力を地方に限定されることを嫌ったシューマッハーは拒絶した。代わりに彼はイギリス軍占領地域の評議会議員に選出された。一方で軍政当局のやり方を批判してフランス軍当局から演説を禁止されたこともある。
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