2代目権八
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:21 UTC 版)
2代目山本権八は、権八良高の養子として山本家に入る。自身の諱は未詳。初名・繁之助。 もともと会津藩士・永岡家(150石)の生まれだが、文政9年(1826年)に同藩士であり鶴ヶ城下で近所に屋敷を持っていた良高権八の娘・佐久の婿となった。後に良高の跡を襲う。佐久との間には三男三女があったが、長じたのは長男・覚馬、長女・窪田氏妻、三女・八重、三男・三郎である。 上級藩士が屋敷を連ねる鶴ヶ城下の郭内、米代四之丁に屋敷を持つ。藩主・松平容保が京都守護職として在京をもっぱらとすると、元治元年(1864年)に権八も上京し、その執務に参加した。同年7月に起きた禁門の変に際しては生駒直道の組下に配属され、御所内の凝華洞詰めとして出動する。主に弾丸の補填などに働き、戦後は褒賞として銀子15枚が下賜された。慶応4年(1868年)の会津戦争においては玄武士中隊に所属して新政府軍と交戦する。しかし改元後の明治元年9月17日に、一ノ堰の戦闘において討ち死にした。享年60。 墓所は福島県会津若松市門田町の光明寺にあるほか、後に三女・八重が嫁いだ新島襄の創始した同志社の墓地にも存在する。 2代目権八の実家、永岡家からは永岡久茂(思案橋事件首謀者)が出ている。
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