1972
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1972年シーズンはハウデン・ガンレイとピーター・ゲシンが残留、アレックス・ソーラー=ロイグが新たに加入し、P160Bを使用した。シーズン中盤にはP160Cが投入された。開幕戦のアルゼンチングランプリではソーラー=ロイグがアクシデントでリタイア、ゲシンもオイル漏れでリタイアし、ガンレイが9位で完走した。ジャン=ピエール・ベルトワーズは1971年1月のレースでイグナツィオ・ギュンティが死亡した事故の責任を問われアルゼンチングランプリを欠場したが、第2戦の南アフリカグランプリから参戦した。南アフリカではベルトワーズがエンジントラブルでリタイア、ゲシンとガンレイはそれぞれトップから9周、14周遅れとなったため非完走扱いとなった。スペイングランプリはBRMにとって不運となり、全員がリタイアした。ソーラー=ロイグとレイネ・ウィセルはアクシデント、ベルトワーズはギアボックストラブル、ガンレイはエンジントラブルでリタイアした。モナコではベルトワーズが勝利し、ゲシンはアクシデント、ウィセルはエンジントラブルでリタイアした。ベルギーグランプリではガンレイが8位完走、ベルトワーズはオーバーヒート、ゲシンは燃料ポンプの故障でリタイアした。フランスグランプリではベルトワーズが15位完走、ウィセルはギアボックストラブルでリタイア、マルコはエマーソン・フィッティパルディのロータスが弾いた小石がヘルメットバイザーを突き抜けて左目に当たって目がくらみ、リタイアとなった。マルコはこの負傷でドライバーとしてのキャリアを終えることとなった。イギリスグランプリではベルトワーズが11位完走、ゲシンはエンジントラブル、ジャッキー・オリバーはサスペンショントラブルでリタイアした。ドイツグランプリではガンレイが4位に入賞、ベルトワーズは9位、ウィセルはエンジントラブルでリタイアした。オーストリアグランプリではガンレイが6位、ベルトワーズは8位、ゲシンは13位という結果であった。イタリアグランプリではゲシンが6位、ガンレイが11位、ウィセルが12位となった。カナダグランプリではガンレイが10位、ゲシンはサスペンショントラブルでリタイアとなった。最終戦アメリカグランプリではエンジントラブルのため両名ともリタイアとなった。
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1972
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1972年シーズン、チームはチーム・ウィリアムズ・モチュールの名で活動した。ドライバーはアンリ・ペスカロロとカルロス・パーチェが起用された。ペスカロロにはマーチ・721が与えられ、パーチェには711が与えられた。 最初のポリトイ・FX3(FX3/1)は、イギリスグランプリで投入する準備ができていた。それはペスカロロがドライブすることとなった。ペスカロロは予選でポールタイムから5.2秒遅れの最下位、26番手であった。決勝では7周目まで順調に周回したが、8周目にコースを外れ、サイドウォールに衝突した。事故の原因として異なる諸説がある。一部のレポートでは、ペスカロロがドライブミスをしたことで事故に繋がったとされる。他の目撃者は、技術的欠陥(「どうやら何かが壊れた」)があったとする。結果としてクラッシュし、マシンは大破しリタイアとなった。財政的な理由のため、ウィリアムズは即時の修理を断念した。代わりに、今シーズンの残りのレースをチームはペスカロロにマーチ・721を走らせた。 FX3/1の再建後に、ウィリアムズは10月22日にブランズ・ハッチで開催されるノンタイトル戦のワールドチャンピオンヴィクトリーレースでクリス・エイモンにドライブさせることを決定した。予選でエイモンは最速タイムから5.8秒遅れであった。20番グリッドからスタートしたエイモンは32周目にエンジントラブルのためリタイアした。
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1972
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1972年開幕戦のアルゼンチンでセベールはギアボックストラブルのためリタイアとなり、不運なシーズンスタートとなった。第2戦の南アフリカでは9位となる。続くスペイングランプリではイグニッションのトラブルでリタイア、モナコグランプリでは非完走扱いとなった。第5戦ベルギーグランプリではジャッキー・スチュワートが胃潰瘍のため欠場し、ティレルはセベール1台体制となった。セベールはロータスのエマーソン・フィッティパルディに次ぐ2位となった。フランスグランプリでセベールはプラクティスで新車の006をドライブしたが、クラッシュし決勝では002を使用、4位に入った。イギリスグランプリでセベールはスピンしコースオフしたが、ロニー・ピーターソンのマーチが残り2周でエンジントラブルを起こし、停車していたセベールのティレルおよびグラハム・ヒルのブラバムに衝突した。続くドイツグランプリでセベールは10位となり、オーストリアグランプリでは9位に入った。イタリアグランプリではエンジントラブルのためリタイアとなったが、これが002にとって最後のレースとなった。次戦のカナダグランプリからはティレル・005が投入された。
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1972
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「サーティース・TS14」の記事における「1972」の解説
TS14は1972年イタリアグランプリでデビューした。チームオーナー兼ドライバーのジョン・サーティースにのみ用意されたが、燃料システムのトラブルでリタイアとなっている。カナダグランプリではTS14は使用されず、最終戦のアメリカグランプリでは2台準備され、サーティースに加えてティム・シェンケンもドライブした。決勝はサーティースがエンジンが不足したためスタートできず、シェンケンもサスペンショントラブルでリタイアとなった。
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1972
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エクレストンはトーラナックに知らせずにチームの運営方法を変更したため、トーラナックは1972年初めにチームを離脱した。エクレストンは「今から考えてみると、この関係は決してうまくいかない」と言った。「(ロン・トーラナックと私は)両者とも考えた。『どうか無茶を言わず、自分のやり方でやってくれ。』」1972年、チームは3台のマシン、BT33、BT34、BT37を走らせたにもかかわらず、失望のシーズンとなった。 チームは1972年シーズン、シェンケンに代えてアルゼンチン人ドライバーのカルロス・ロイテマンを起用した。ヒルはチームに残留したが、チームはロイテマンにBT34を与えた。初戦となったアルゼンチンでロイテマンはポールポジションを獲得したが、決勝は7位で終わった。南アフリカグランプリでは燃料システムのトラブルでリタイアした。ロイテマンはスラクストン・サーキットで行われたフォーミュラ2のレースにロンデル・レーシングから参加し、メカニカルトラブルのためクラッシュ、足首を負傷し二戦を欠場することとなった。BT34はスペインとモナコでは使用されず、チームは第5戦から3人目のドライバー、ウィルソン・フィッティパルディを起用しBT34をドライブさせた。フィッティパルディはベルギーでギアボックストラブルのためリタイアした。続くフランスでは8位に入り、第7戦のイギリスでは69周目にサスペンションを破損、停止したにも関わらず12位に入った。第8戦のドイツでは7位に入ったが、その後は4戦連続でリタイアとなった。オーストリアはブレーキトラブル、イタリアはサスペンションの破損、カナダはギアボックスを破損し、最終戦のアメリカはエンジントラブルが原因であった。 ブラバムはこの年7ポイントを獲得した。4ポイントはヒル、3ポイントはロイテマンで、これによりチームはランキング9位となった。 チームは1973年シーズン、BT34に代えてBT37を投入した。
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1972
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「マクラーレン・M19A」の記事における「1972」の解説
マクラーレンは1972年シーズンに向けて、新スポンサーとして化粧品会社ヤードレー・オブ・ロンドンを獲得した。マシンはヤードレーのスポンサーカラーである白に塗り替えられ、車体側面の燃料タンクのみ従来のオレンジ色で塗装された。 開幕戦のアルゼンチングランプリでハルムは2位に入り、幸先の良いスタートとなった。ピーター・レブソンはマクラーレンでのデビュー戦となったがリタイアに終わった。第2戦南アフリカグランプリではハルムが優勝、レブソンは3位と両者とも表彰台に上った。ハルムの優勝は自身およびマクラーレンにとって1969年メキシコグランプリ以来の優勝であった。 改良型のM19Cはモナコグランプリに投入され、ハルムがドライブした。レブソンとブライアン・レッドマンはオーストリアグランプリまでM19Aをドライブした。レブソンはカナダグランプリでポールポジションを獲得、これはマクラーレンにとって初のポールポジションであった。1971年に比べて信頼性は向上し、コンストラクターズランキングは3位となった。 後のワールドチャンピオン、ジョディ・シェクターはM19AをドライブしてアメリカグランプリでF1デビューを果たした。
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1972
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マトラは1台体制でクリス・エイモンをチームに留め、1972年仕様のマトラ・MS120Cをドライブさせた。マトラはシーズン中盤にはマトラ・MS120Dを投入する。開幕戦のアルゼンチングランプリでエイモンはウォーミングラップ中にギアボックスにトラブルが生じ、スタートできなかった。第2戦の南アフリカグランプリでは15位に終わり、続くスペイングランプリでは再びギアボックストラブルのためリタイアとなる。モナコグランプリ、ベルギーグランプリと連続して6位に入り、フランスグランプリでエイモンはMS120Dに乗り換えポールポジションを獲得、決勝ではパンクでピットインするまでレースをリード、コースに復帰後もラップレコードを記録し3位に入った。イギリスグランプリでは再びMS120Cを使用して4位に入り、ドイツグランプリはMS120Dで15位に終わった。オーストリアグランプリでは5位に入る。イタリアグランプリはブレーキトラブルのためリタイアとなる。カナダグランプリは6位となる。最終戦のアメリカグランプリでは15位に終わった。マトラはその後、ル・マンに集中するためフォーミュラ1から撤退した。
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