1966年W杯ベスト8
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「サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表」の記事における「1966年W杯ベスト8」の解説
FIFAワールドカップは1966年イングランド大会で初出場。予選のオーストラリアとの試合は中立地カンボジアで行われ、第1戦に3-1、第2戦に6-1と2勝して本大会出場を決めた。 本大会のグループステージでは、初戦はソビエト連邦に0-3で敗れたが、次のチリ戦には引き分け、強豪イタリアとの最終戦では前半42分の朴斗翼の得点で1-0で破り、アジア勢初勝利とグループ突破のベスト8に入る活躍を見せた。現在でもイタリア戦でのW杯史上最大級の番狂わせ(一般的には1950年ブラジルW杯での、アマチュア選手揃いのアメリカが、プロ選手を揃えたイングランドを1-0で下したのがW杯史上最大の番狂わせとされているが、北朝鮮の勝利はこれに並ぶものと各国で大々的に報道された)とベスト8進出は大きな伝説として世界に語り継がれている。この時のチームは、東欧の社会主義国と親善試合を行って強化され、小柄だが力強く運動量豊富でスピードがあり、技術的にも正確なチームであった。 準々決勝のポルトガル戦で、北朝鮮は、前半25分までに3-0とリードしながら、この大会の得点王となるポルトガルの“モザンビークの黒豹”エウゼビオの4得点などで、3-5でワールドカップレコードとなる大逆転負けを喫した。朴斗翼は「あの時私たちは、攻撃しか知らなかった。私たちが3点決めると、ポルトガルのキャプテンは全員に守らせたんです。3点取られても守った。私たちはそれを分からず、ずっと攻め続けた。すると体力が落ちたところにエウゼビオのスピードにやられてPKを与えてしまった。私たちは大きい試合の経験が決定的に不足していた。だから、自分たちのやり方、攻撃サッカーしかできなかった」とポルトガル戦を振り返る。この試合で、ポルトガルの長身のジョゼ・トーレスにかき回された経験から大型選手をそろえるという強化方針を協会が決めたため、かえってベスト8の成功の要因だった豊富な運動量やスピードが北朝鮮から失われた。更に、元北朝鮮代表選手・監督の尹明燦の証言によると、サッカー界と関係の強かった朝鮮労働党の幹部朴金喆が1968年に金日成総書記と対立して粛清されると、彼と親しかった多くの代表選手たちが粛清され、一部の選手は地方の炭鉱に送られるといった処分を受け、その為に世代間の引き継ぎが上手くいかず、チーム力が低下したという。
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