16世紀以降
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16世紀の終わりごろには技術としての毒の中心地はイタリアからフランスへと移り、犯罪に毒がもちいられることはますます多くなっていった。1570年代にはパリだけで三万人もの人々が何らかのかたちで違法かつ道徳的でない毒の使い方をしていたという数字もあり、もはやこの現象そのものが「悪疫」あるいは「伝染病」と呼ぶにふさわしいものになっていた。この伝染病はいくつもの弔いの鐘を響かせる一方で、犯罪とは何のかかわりもない人々にも大きな影響を与えている。とりわけ貴族の多くは毒の恐怖に怯えるばかりであった。彼らはごく信頼できる人間との晩餐会にしか訪れないようになり、雇い入れる従者も自らが選ぶのが当たり前になる。きわめて高貴な生まれであり、毒を極端に恐れていた有名な人物を何人か挙げることができる。ヘンリエッタ・アンとヘンリ6世である。彼女は毒を気にするあまり、十二指腸潰瘍で腹膜炎になるやいなや毒が盛られたのだと早合点をした。ヘンリ6世もルーブルを訪れた際には自分で調理した卵しか食べなかったと記録されており、飲み物も自分で注いだ水しか口にしなかったという。1662年、ルイ14世はアポセカリーに規制をかけ、信用できると判断された人間以外が毒を販売することを禁止した。
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16世紀以降
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復活祭の日付2011年-2025年 年西方教会東方教会2011年4月24日 2012年4月8日 4月15日 2013年3月31日 5月5日 2014年4月20日 2015年4月5日 4月12日 2016年3月27日 5月1日 2017年4月16日 2018年4月1日 4月8日 2019年4月21日 4月28日 2020年4月12日 4月19日 2021年4月4日 5月2日 2022年4月17日 4月24日 2023年4月9日 4月16日 2024年3月31日 5月5日 2025年4月20日 16世紀になって西欧社会がグレゴリオ暦を採用したことで、ユリウス暦を用いつづけた東方教会との間で再び復活祭が異なるという現象が起こるようになった。 1997年にシリアのアレッポでキリスト教諸派の代表が集まっておこなわれた世界キリスト教協議会では復活祭の日付の確定法の再検討と全キリスト教における復活祭の日付の統一が提案された。この問題は現在でも協議が続けられているが、いまだに統一には至っていない。 ある人々は復活祭の日付が移動することや教派によって日付が異なることの不便を解消するため、思い切って月齢と復活祭を切り離すことを提案している。たとえば4月の第二日曜日に固定するなどの意見が出されているが、まだ広範な支持を受けるまでには至っていない。 西方教会において、最も早く復活祭が祝われる可能性がある日は(グレゴリオ暦の)3月22日である。これは最も近くでは1818年にそうなっていた。次にこの日が復活祭になるのは2285年のことである。逆に最も遅い日は4月25日である。最も近くでこの日が復活祭となったのは1943年のことであり、次は2038年になる計算である。
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