陸戦隊の派遣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 01:39 UTC 版)
占領が確認されると、攻略部隊は追加の陸戦隊と医療班を上陸させて処理に当たらせ、水上機隊や飛行艇の基地を整備した。また、アメリカ軍の捕虜を飛行場に集めて座らせようとしたが、捕虜たちはそれを拒否して座ろうとしなかった。わけを聞くと、第一次攻略戦の第一回空襲の後、守備隊は日本の空挺部隊の来襲を恐れて大急ぎで飛行場に地雷を埋設した。その上に座らせるのは、座らせてから地雷で吹っ飛ばそうと企てているのでないか?と勘繰ったためであった。また、ブルドーザー1両とクレーン2基も鹵獲し、これらは後にウェーク島の防御陣地構築に使用されることとなる。 当面の警備兵力には当初、攻略部隊をそのまま警備部隊としたが、現地の要望により改めて警備部隊の派遣が要請されることとなった。これを受け、上海海軍特別陸戦隊から一個大隊がウェーク島に派遣されることとなり、大隊は12月27日に輸送船新田丸(日本郵船、17,150トン)に乗船し、途中対潜行動をとった上で1942年1月12日にウェーク島に到着。大隊は第65警備隊としてウェーク島の防衛にあたることとなり、これと入れ替わるように攻略部隊は暫時引揚げていった。 その後、日本はこの島を直轄地としてウェーク本島を「大鳥島」、ピール島を「羽島」、ウィルクス島を「足島」、ピーコック岬を「首崎」と命名し統治を行った。ウェーク島本島には北側に中攻掩体、南西には戦闘機掩体及び燃料置場、飛行場の南東には兵舎地区が設けられた。
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