貴族社会の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:55 UTC 版)
その10世紀中頃とはちょうど平安内裏が始めて焼亡した村上天皇の天徳4年(960)頃、上島享のいう「火災の時代」「大規模造営の時代」の幕開けでもある。それは朝廷の儀式で見れば正月の天皇拝賀が文武百官による「朝賀」から天皇側近(次侍従以上)に限定された「小朝賀」へと変化した時期であり、その代わりのように大臣家で太政官全員を招く正月大饗が頻繁に開かれた頃である。 社会全体を見れば封戸の解体、特に諸大夫以下での給与制の解体と公卿層との階級分化から臣従化、四等官による行政から受領に象徴される公職の請負、官司請負制への移行など律令国家体制から王朝国家体制への転換があり、文化面では国風文化が花開く時期、つまり社会と貴族の生活が大きく変わり始めた時期である。 藤田勝也が「成立期」とした時期は文献史料があまりなく遺跡も未発掘であり、その実像については藤田自身が言うように必ずしも明らかではない。それにも関わらず「成立期」と見做されるのは様々な状況証拠によってである。「様々な状況証拠」とは以下のような点である。
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