言語状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:13 UTC 版)
スターリン時代、高麗人は、公式の場で朝鮮語を使用することを禁止され、学校の授業もすべてロシア語で行われた。スターリンの死後、これらの制限は撤廃されたが、ソ連社会に同化した高麗人は、進学や社会的栄達に有利なロシア語を母語としていた。子供を持つ高麗人の両親の中には、朝鮮語をもはや不要なものと考え、朝鮮語の授業の廃止を要請する者もいた。しかし、インターナショナリズムを標榜するソ連当局は、これら一部の高麗人の両親達の訴えを退けた。フルシチョフ及びブレジネフ時代、朝鮮語紙「レーニンの旗幟」(1938年 - 1989年発行)が発行され、朝鮮語で上演される朝鮮劇場が中央アジア各地を巡業した。よって、スターリン時代を除けば、ソ連で朝鮮語が弾圧されたというのは事実に反する。ただし、社会的な圧力があったことは否定できない。 ペレストロイカとグラスノスチの訪れと共に、短期間の朝鮮民族復興運動が始まった。ソ連の各共和国には、朝鮮民族協会が設立され、朝鮮語を学ぶ高麗人の若者が一時的に増加した。高麗人の知識人層の中では、沿海州への帰還運動も起こったが、実際に沿海州に再移住したのは数千人に過ぎなかった。なお、彼等の話す朝鮮語は、ロシア語の影響を極めて強く受けた高麗語と呼ばれるものであり、本国の朝鮮語との乖離は特に日常の話し言葉において甚大である。韓国・北朝鮮・延辺朝鮮族自治州で話される中国朝鮮語はどれもほとんど問題なく互いの意思疎通が出来るが、高麗語や在日朝鮮語の場合は、意思疎通は無理ではないにしろ、かなりの困難を伴う。
※この「言語状況」の解説は、「高麗人」の解説の一部です。
「言語状況」を含む「高麗人」の記事については、「高麗人」の概要を参照ください。
言語状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 04:17 UTC 版)
台湾系移民の第一世代は北京官話を共通語としながら、台湾語を話す者も多く存在し、少数ながら客家語も話す者もいた。本省人の移民一世は、日本統治時代の教育を受けたことから、日本語を第二言語として話した。彼らの子供達も、中国語学校に通っているかいないかにかかわらず、言語継承により幼少期は北京官話を話すこととなったが、アメリカにおける大部分の移民二世と同様に、年齢を経るにつれて、親から受け継いだ北京官話を忘れていくといったケースが多く見られた。台湾系移民二世の多くは、北京官話を解する者は少なく、台湾語を第二言語として話したが、会話能力の程度は個人差が大きい。対照的に、台北都市圏出身の移民者の家族は北京官話を第二言語として話し、台湾語はほとんど解さないという。ま客家にルーツを持つ移民二世も、第二言語として北京官話を話すという。客家の移民一世の多くは、北京官話・台湾語・客家語の3言語全てを解するという。閩南と客家の混血は、第二言語として北京官話のみを話しているという。閩南と外省人の混血若しくは純粋な外省人の家庭で育った移民二世は、そのほとんどが北京官話のみを第二言語とし、台湾語は全く解さないという。
※この「言語状況」の解説は、「台湾系アメリカ人」の解説の一部です。
「言語状況」を含む「台湾系アメリカ人」の記事については、「台湾系アメリカ人」の概要を参照ください。
- 言語状況のページへのリンク