衰退と転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 07:38 UTC 版)
栄華を極めた白子港が衰退した直接の原因は安政の大地震であるとされている。町村制の施行を翌年に控えた1888年(明治21年)に奄芸・河曲両郡が三重県庁に提出した『町村制実施ニ係ル取調上申書』には 「 安政年度ノ震災以来潮路ヲ変シ、堤防ヲ崩壊スルアリ 」 とあり、安政の大地震による堤防の破壊が衰退の引き金となったことが分かる。更に明治維新後の紀州徳川家からの援助や港の税収がなくなったことが決定打となったとある。ただし安政の大地震の発生前より、尾張・三河で白子の支配を受けない廻船が現れたり、株仲間解散令による木綿屋の解体などの白子港存立基盤が揺らぎ始めていた。こうして衰えた白子港に代わって、四日市港が幕末から台頭し、伊勢湾における最大の商業港の座を奪われた。 1904年(明治37年)、当時の栖原七良兵衛白子町長によって新しい防波堤が築かれ、以降は漁港としての活路を見いだしていく。 日中戦争の最中である1937年(昭和12年)、鈴鹿海軍航空隊が白子に開設され、1941年(昭和16年)には横須賀海軍工廠施設部が白子港に置かれたことで軍港に変わった。1942年(昭和17年)には大日本帝国海軍の軍事施設が建てられ、白子町は海軍の町になっていった。
※この「衰退と転換」の解説は、「白子港」の解説の一部です。
「衰退と転換」を含む「白子港」の記事については、「白子港」の概要を参照ください。
- 衰退と転換のページへのリンク