藤原継業とは? わかりやすく解説

藤原継業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/17 03:27 UTC 版)

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藤原継業
時代 平安時代初期
生誕 宝亀10年(779年[1]
死没 承和9年7月5日842年8月14日
別名 嗣業、緒業
官位 従三位伊予権守
主君 桓武天皇平城天皇嵯峨天皇仁明天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原百川、母:伊勢大津娘
兄弟 旅子帯子緒嗣継業
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藤原 継業(ふじわら の つぐなり)は、平安時代初期の公卿。名は嗣業[2]または緒業[3]とも表記する。藤原式家参議藤原百川の三男。官位従三位伊予権守淳和天皇外叔父

経歴

父・百川は光仁桓武両天皇を皇嗣に擁立した功臣であったため、兄・緒嗣と共に桓武天皇に信任されて順調に昇進する。延暦15年(796年内舎人より抜擢され従五位下侍従に叙任される。その後、侍従に加えて大学頭左兵衛佐を兼帯し、延暦23年(804年)には正五位上に昇叙されている。延暦25年(806年)3月に桓武天皇が崩御すると、4月には兄・緒嗣と共に、桓武天皇より賜与された200戸の封戸朝廷に返上しようとしたが、この封戸は桓武天皇が特別に賞して賜与したものであるとして、皇太子・安殿親王(後の平城天皇)は返上を許可しなかった[4]

平城朝においては、兵部大輔左京大夫大和守を歴任し、大同3年(808年従四位下に叙せられる。嵯峨朝に入り、大同5年(810年)4月に従四位上に叙せられると、薬子の変後に近江守に任ぜられる。のち兵部大輔・神祇伯・伊予権守を歴任するが、伊予権守の任を終えて帰京後は朝廷への出仕をしなかった。

弘仁14年(823年淳和天皇が即位するとその外戚として正四位下に、天長3年(826年)には従三位に昇叙され公卿に列す。その後も官職に就く事はなく、承和9年(842年)7月5日に高橋里の邸宅で没した。享年64。最終官位は散位従三位。

人物

性格は素直で、容姿や身のこなしが優れていた。また、射を好み、琴歌も得意としていた。晩年は邸宅について顧みる事がなく、門戸の修理もしなかったという[5]

官歴

六国史』による。

脚注

  1. ^ 『公卿補任』による。『続日本後紀』承和9年7月5日条の薨伝では「時年六十五」とあることから、逆算すると宝亀9年(778年)生まれとなる。
  2. ^ 『日本後紀』大同元年4月14日条
  3. ^ 『尊卑分脈』
  4. ^ 『日本後紀』大同元年4月14日条
  5. ^ 『続日本後紀』承和9年7月5日条

出典

  • 森田悌『日本後紀 (上)』講談社講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、2007年
  • 森田悌『続日本後紀』(上下巻)、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年




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