草創の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:24 UTC 版)
ガージャール部族連合はトルコマーン系の遊牧部族連合でサファヴィー朝ではキズィルバーシュの一翼をなし、サファヴィー朝期には今日のナゴルノ・カラバフ自治州のカラバフ、のち同朝末にはアスタラーバード(波: اَستِر آباد Asterābād、今日のイラン・ゴレスターン州ゴルガーンの旧称)を本拠としていた。ガージャール部族連合はおおむねデヴェルーとコユンルーという二集団に大別でき、互いに勢力を争っていた。 コユンルーのムハンマド・ハサン・ハーンはサファヴィー朝末期以降の群雄割拠の時代にあってアフシャール朝のナーディル・シャーとの合従連衡において、頭角をあらわす。ナーディル・シャー没後、ムハンマド・ハサン・ハーンはギーラーン、マーザンダラーン、ゴルガーンのカスピ海沿岸部を押さえる一大勢力となり、イラン南東部を本拠とするザンド朝のカリーム・ハーンと争うようになった。 抗争のなかでムハンマド・ハサン・ハーンの息子、アーカー・ムハンマド・ハーンはザンド朝の手に落ちる。カリーム・ハーンはガージャール部族連合内の争いから利を得るため、彼を首都シーラーズに抑留して手元におく一方、彼と敵対するデヴェルーを支援した。1758年、父ムハンマド・ハサン・ハーンが没するとアーカー・ムハンマド・ハーンはガージャール部族連合の一方コユンルーの長となり、ザンド朝宮廷に席を占める。 アーカー・ムハンマド・ハーンは1779年、カリーム・ハーンが没するとシーラーズを脱出し、1781年、ロシアを撃退してアスタラーバードでデヴェルーを抑えてガージャール部族連合内の権力を確立した。これをもってガージャール朝の成立とすることがある。 アーカー・ムハンマド・ハーンは以降ザンド朝と争いながら北部イランに勢力を広げていく。1785年までにカスピ海沿岸をほぼ押さえ、テヘランに本拠を移した。これはイラン政治の重心が北西イランへと移動したことも示しており、レイ近郊の小さな街にすぎなかったテヘランは成長を続け今日に至るまでイランの首都となる。1794年にはルトフ・アリー・ハーンを捕らえてザンド朝を滅ぼした。 しかし、1783年にロシア帝国とカルトリ・カヘティ王国(英語版)(1762年–1798年)の間でギオルギエフスク条約(英語版)が締結され、グルジアがロシアにたびたび保護を求めるグルジア問題が始まると、1795年グルジアへ遠征してイラン王朝伝統の宗主権を再確立し、ティフリス(今日のトビリシ)まで攻略した。
※この「草創の時代」の解説は、「ガージャール朝」の解説の一部です。
「草創の時代」を含む「ガージャール朝」の記事については、「ガージャール朝」の概要を参照ください。
- 草創の時代のページへのリンク