だいごふくりゅう‐まる【第五福竜丸】
第五福竜丸
第五福竜丸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 20:53 UTC 版)
「日本とマーシャル諸島の関係」の記事における「第五福竜丸」の解説
マーシャル諸島を委任統治という形で領有したアメリカは、1953年にネバダ核実験場で実施されていた核実験「アップショット・ノットホール作戦」の後継実験である「キャッスル作戦」をビキニ環礁及びエニウェトク環礁で実施していた。キャッスル作戦は計六回の核実験により構成されており、第一回目の核実験「ブラボー実験」は1954年3月1日にビキニ環礁で実施された。 このブラボー実験ではマーシャル諸島沖で操業していた日本の漁船「第五福竜丸」の乗組員23名も「死の灰」と呼ばれる放射性降下物に汚染され、日本・焼津への帰国後に火傷、頭痛、嘔吐、眼の痛み、歯茎からの出血、脱毛など急性放射線症候群を訴えた。なお、第五福竜丸はアメリカが設定した危険区域の外側で操業しており、本来被曝する事はありえなかったが、爆発の威力がアメリカ軍が想定していた5メガトンを大きく上回る15メガトンに達していたため、被曝した。これは広島・長崎への原爆投下に次ぐ「日本を巻き込んだ第三の原子力災害」となり、日本は原子爆弾と水素爆弾の両方の兵器による原子力災害(被爆と被曝)を経験した国となった。そして、第五福竜丸の被爆、特に久保山愛吉無線長(当時40歳)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言して死んだ出来事(1954年9月23日)は、日本だけでなく世界で反核運動が始まる動機になった。またこの出来事は、特撮作品「ゴジラ」制作にも大きな影響を与えている。 しかしアメリカ側は、仮に放射性降下物が降り注いだとしてもマグロなど水揚げされる水産物が汚染される事はなく、大量の海水ですぐに希釈されると主張。しかし広島・長崎への原爆投下や第五福竜丸事件があった事から日本はそれを信じずに独自に海の放射能汚染の実態を解明しようという一大プロジェクトが水産庁主導で始動して、海洋・水産・大気・環境・放射能などの専門家を乗せた俊鶻丸をビキニ環礁に向かわせた。現地住民の協力も得た結果、放射能は海水ではすぐに薄まらない事が証明され、また世界で初めて放射能汚染物質が食物連鎖を通じてマグロやカツオの体内に蓄積されていくと判明した。この結果は日本における反核運動を助長し、長らく放射能と水爆実験の関係性を否定してきたアメリカ原子力規制委員会にもその関連性を認めさせた。この時プロジェクトの中心的存在であった三宅泰雄は、それ以降もマーシャル諸島にたびたび調査に赴いて放射能の危険性を訴え続けて高い評価を得ている。 なお、現在ではビキニ環礁は水爆の恐ろしさを伝える負の遺産として世界遺産に登録されており、広島市の原爆ドームもまた原爆の恐ろしさを伝える負の遺産として世界遺産に登録されているなど、共通項が存在する。その事から、マーシャル諸島と広島市は核なき世界を訴える立場を共にしており、広島ではビキニ環礁を題材にした講演会が開かれるなど交流も存在する。
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「第五福竜丸」の例文・使い方・用例・文例
- 第五福竜丸の悲劇を忘れるな
- 49年前,日本のマグロ漁船,第五福竜丸は,ビキニ環礁の近くで操業していた。
- 1954年3月1日,米国は環礁にある核実験場で水爆を爆発させ,第五福竜丸の乗組員は,核降下物,すなわち「死の灰」による被害を受けた。
- 第五福竜丸平和協会は,来年迎える悲劇から50周年をさまざまなイベントで記念している。
- 第五福竜丸の乗組員だった大石又(また)七(しち)さんは,49年前の体験とそれ以後の苦悩について語った。
- 1954年,第五福竜丸はビキニ環礁付近で操業していて,米国の水爆実験による死の灰に襲われた。
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