穢れ観念の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 04:28 UTC 版)
平安時代に日本に多く伝わった平安仏教は、この思想を持つものが多かったため、穢れ観念は京都を中心に日本全国へと広がっていった。また、平安時代後期以後、国家鎮護や天皇・貴族のために加持祈祷を行う上位の高僧(学侶)には皇族や貴族出身者など上流階級出身者の子弟が増加し、彼らは神祇祭祀の主催者である天皇に仕えるために身の清さを維持する必要が生じたため、葬儀など穢れに接する可能性の高い行事へは参加をせず、堂衆と称された下級僧侶や遁世僧と呼ばれる聖が行うようになり、僧侶間の階層分化を進める一因となった。一方で、日本における穢れの思想は神道の思想や律令法で導入された服喪の概念とも絡み合って制度化されるなど、複雑な発展を遂げていった。10世紀前半成立の『延喜式』では3巻の「臨時祭」の中に、「穢悪」のリストがあり、死や出産、六畜の肉食が挙げられ、他の箇所でも穢に言及されている。(尚、延喜式の穢れに対する忌みの措置は、参加を禁じるためでは無くその一定期間を過ぎたら出勤するようにと規定しているものである。)藤原実資は日本の穢れは天竺(インド)・大唐(中国)にはないものであると解しており(『小右記』万寿4年8月25日条)、藤原頼長も穢れの規定は(中国からの移入である)律令にはなく、(日本で独自に制定した)格式に載せられていることを指摘している(『宇槐雑抄』仁平2年4月18日条)。
※この「穢れ観念の起源」の解説は、「穢れ」の解説の一部です。
「穢れ観念の起源」を含む「穢れ」の記事については、「穢れ」の概要を参照ください。
- 穢れ観念の起源のページへのリンク