はっ‐きん【発禁】
読み方:はっきん
「発売禁止」の略。「—本」
発禁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/26 00:59 UTC 版)
- ^ 浅岡邦雄 2018, pp. 1–2
- ^ “第65回常設展示「発禁本」” (pdf). 国立国会図書館 (1996年1月). 2023年12月16日閲覧。
- ^ 「中国人気映画の上映禁止、その背後を探る」大紀元、2007年8月18日掲載。
- ^ “Supreme Court - Statutory Publication Bans”. www.bccourts.ca. 2022年5月22日閲覧。
- ^ 浅野邦雄 2018, p. 5
- ^ 芸術座『生ける屍』(1917年10月30日初演)の劇中歌。北原白秋作詞。
- ^ 永岡書店刊「おもしろ雑学百科」(ISBN 4-5220-1507-0)。レコードの発禁が出版法の対象とされるまでは治安警察法第16条によって禁止していた。
- ^ 著名作家の作品など大量に発禁『東京日日新聞』(昭和16年8月28日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p551 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 塙叡「日本歴史歳時記」『東京工芸大学工学部紀要. 人文・社会編』第21巻第2号、1998年、62-69頁、CRID 1050001202678853760、ISSN 03876055、NAID 110001165825。
発禁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 00:17 UTC 版)
大日本帝国で出版されるすべての出版物は内務省警保局によって検閲が行われ、エロ・グロ・ナンセンスをテーマとする本は出版法に基づいて、雑誌や新聞は新聞紙法に基づいて、即座に発売禁止処分となった。検閲はとても厳しいうえに、基準がよく解らず、江戸川乱歩のように発禁がわりと見えている作家だけでなく、出版前から「名著」と称えられ戦後には教科書に掲載されることになる萩原朔太郎『月に吠える』ですら、初版は発禁を食らった。 そのため、1920年代には、大手出版社では納本時の検閲に先立って「内閲」と呼ばれる事実上の事前検閲制度が導入されており、検閲官との協議の上、ゲラの段階で検閲で引っかかりそうなところはあらかじめ伏字にしておくことで、発禁を逃れることにしていた。例えば江戸川乱歩や夢野久作を擁する『新青年』や『改造』は、伏字が多かった。しかし、「内閲」を行っているのにもかかわらず『改造』1926年7月号が発禁を食らったため、出版業界は大いに反発する。同年には日本文藝家協会を中心に「検閲制度改正期成同盟」が結成され、浜口雄幸内務大臣に直接面会して圧力をかけるなどした結果、1927年に「内閲制度」が廃止される。 おりしも普通選挙法の施行もあって大正デモクラシーの機運がピークに達していた時代であり、看板雑誌の発禁で経営が悪化した改造社が1926年に円本の刊行を始め、社の経営を建て直すとともに、結果的に出版業界として民衆に安価な本を供給する体制を整えることになるなど、後に中小出版社だけでなく大手出版社からも円本の形態で発禁上等のエロ・グロ・ナンセンス本が乱発される背景として、このような検閲・発禁をものともしない出版業界の自由な気風が醸成されていたことが背景にあった。相変わらず検閲はとても厳しく、自主規制の伏字は多かったが、例えば「伏字表」と呼ばれる紙が付属しており、これを参照することで伏字になっている部分を埋められるなど、単に検閲に屈するだけでなく、検閲に対する何らかの策を弄していた出版社は多かった。 一方、検閲で発禁となった場合は、本当に発売できない。ただし、発売前に当局に押収され、市場に全く流通しなかったはずの「発禁本」が、実際は大量に市場に流通している現実がある。この時期に制作された、エロ・グロ・ナンセンスをテーマとするほとんどの作品は、頒布会の形式を用いて秘密裏に流通する「地下本」の形式を取って流通するか、もしくは検閲が済む前に発売してしまう「ゲリラ発売」の形式を取る。中には、本をあらかた売り切った後で検閲用の本を内務省に納本し、押収される用に残しておいた少数の在庫だけを押収してもらうという人もいた。「地下本」の頒布会として有名な「相対会」が戦後に公開したリストには、第一東京弁護士会会長・豊原清作などの名が記されているなど、「地下本」と言っても相当な規模の発行部数があり、また地下本を裁く法曹関係者ですら地下本の頒布会の会員が少なくなかったことが分かっている。 大手出版社でも、売れるとみると時機を逃さないために「ゲリラ発売」してしまった例がある。例えば、平凡社が江戸川乱歩の大ブームに合わせて刊行した『江戸川乱歩全集』の付録『犯罪図鑑』(1932年)が「風俗壊乱」の罪で発禁となった例がある。ブームの最盛期となる1932年頃には、平凡社や新潮社と言った大出版社までが発禁上等でエログロ本を乱発した。 レコードに関してはこれを専門に取り締まる法律が無かったため容易に取り締まれず、「エロ歌謡」が大流行して公然と一ジャンルをなした。1934(昭和9年)8月に出版法の改正が行われ、改正出版法第三十六条によってレコードも正式に出版法に基づく検閲・発禁の対象となったが、しばらくは検閲が緩かった。 1936年頃から検閲が苛烈になり、治安警察法によるレコードの旧譜の発禁も行われた。発禁第1号として、漫才のレコードが「ふざけすぎている」として発禁となった。さらに当時の大ヒット曲の『忘れちゃいやョ』(1936年)が「安寧秩序ヲ紊シ若ハ風俗ヲ害スル」(治安警察法第十七条)するレベルのエロさと判断され、治安警察法が適用され全レコードが回収された。これをきっかけに、レコード業界でもそれまでの事後検閲に代わってレコード会社と内務省の協議による事実上の事前検閲制度の導入に至る。 エロ・グロ・ナンセンスによって、出版法や新聞紙条例で発禁になっても、最高刑が2年以下の禁固であり、それほどひどい刑罰を受けるわけではなかったので(普通は罰金で済む)、発禁本を専門に出版する人もいた。例えば、明治・大正・昭和にかけて発禁を食らい続け、戦後もGHQによって発禁を食らった宮武外骨のような大物もいる。さすがに梅原北明クラスになると官憲の監視が常時付き、最終的に梅原は国外へ逃亡する。 治安維持法で有罪になると最高刑が死刑であり、裁判を待たずに特高による獄中拷問死などが引き起こされることもあった。ただし治安維持法は、非合法ではあってもエロ・グロ・ナンセンスの地下出版には適用されなかった。また改造社は左翼系の出版物で発禁を食らうことが多かったが(例えば改造社は小林多喜二の『蟹工船・工場細胞』で1933年に発禁を食らっている)、これも単に出版法に基づいてのもので、まして改造社は江戸川乱歩などの本を発禁にもならずに普通に出版していた。このため、この時期のエロ・グロ・ナンセンス文化は、「テロよりエロ」「アカよりピンク」として、左翼が弾圧されることのバーターで内務省に黙認されていたとの説がある。(ただし、出版法第26条で「政体ヲ変壊シ又ハ国憲ヲ紊乱」するものと定義される社会主義の出版物と、出版法第19条で「安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱」するもの定義されるエログロナンセンス本との区別は、実際は必ずしも明確ではなく、エログロナンセンスの研究者である荒俣宏は『プロレタリア文学はものすごい』において、プロレタリア文学は「変態」「エログロ」だと主張している。) 1937年の日中戦争開始からは戦中期となって、検閲がさらに苛烈になり、エロ・グロ・ナンセンスの出版が許されなくなるだけでなく、かつてエロ・グロ・ナンセンスを許容したような出版界の自由な気風も取り締まられるようになる。1930年代に大ブームを起こした江戸川乱歩も、戦時中は『芋虫』が発禁となり、既刊もほとんど絶版になるなどの苦難を受けた。 戦中期に消滅したエロ・グロ・ナンセンスの気風が復活するのは、戦後のアプレゲールの時代を待たねばならない。アプレゲール期のカストリ雑誌にはGHQによる検閲が行われたが、それでも昭和初期のエロ・グロ・ナンセンス期と同様に自由な気風が復活した。 日本国憲法施行後も刑法175条によるエロ・グロ・ナンセンスへの弾圧は続き(例えば、戦前に出版法違反で逮捕された相対会の小倉ミチヨは戦後に活動を再開したが、1957年に刑法175条違反で再び逮捕されている)、エログロナンセンス時代の文物をまともに再評価できるようになるのは弾圧が弱まった1970年代以後となる。1990年代にはついに『犯罪図鑑』が平凡社によって復刻され、2010年代には当時の発禁書物が国立国会図書館デジタルコレクションでネット公開される時代となっている。
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