田中正造
明治時代の政治家。天保時代である西暦1841年に生まれ、1890年に第1回目となる衆議院議員総選挙に当選し帝国議会議員となった。1913年没、享年71歳。
田中正造は、いわゆる「足尾銅山鉱毒事件」に関する一連の取り組みによって知られている。告発者として国会で取り上げ、各地で演説なども積極的に行っている。議員時代を通じて、さらに議員辞職後も、一貫して同問題に取り組み続けた。その様は公害問題に半生を捧げたとも表現しうる。
他方、田中正造は、足尾銅山鉱毒事件について陳情するため、明治天皇へ直訴しようとしたことでも知られている。当時、天皇は大日本帝国憲法のもと帝国議会において大権を有する国家元首であった。直訴は未遂に終わっているが、世間では大きく取り沙汰された。なお、田中正造は直訴に踏み切った時点ですでに議員を辞職している。
田中正造の天皇陛下への直訴について、同時代の作家・木下尚江が「臨終の田中正造」と題する一文を綴っている。「臨終の田中正造」では、直訴事件によって田中正造が世間から狂人の烙印を押されたことを伝えると共に、田中が直訴を行った時点ですでに死ぬ覚悟を決めていたであろうことを示唆している。
関連サイト:
臨終の田中正造 - 青空文庫
たなか‐しょうぞう〔‐シヤウザウ〕【田中正造】
田中正造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/06 00:49 UTC 版)
田中 正造(たなか しょうぞう、天保12年11月3日(1841年12月15日) - 1913年(大正2年)9月4日)は、日本の幕末から明治時代にかけての村名主、政治家。日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件の重鎮であり[1]、明治天皇に直訴しようとしたことで有名。衆議院議員選挙に当選6回。幼名は兼三郎。下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身。足尾銅山鉱毒事件の被害者でもあり、救済を政府に訴えた。
- 1 田中正造とは
- 2 田中正造の概要
田中正造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 16:06 UTC 版)
栃木県議会議長、後に衆議院議員。足尾銅山鉱毒事件の追及に深く関わる。作中では銅山関係者から「栃木鎮台」と恐れられる一方、民衆の人気が高いことが描写されている。
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