ずいせん‐じ【瑞泉寺】
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
瑞泉寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 04:16 UTC 版)
瑞泉寺は明徳元年(1390年)に「遼遠の境」に赴いた本願寺五世綽如が現地の杉谷慶善の協力を得て創建した寺院であり、越中における最古の本願寺門流真宗系寺院であった。しかし、綽如が退去した後の瑞泉寺は半世紀近くにわたって無住職の時代が続いており、1430年代後半に至って6代巧如によって息子の如乗が派遣されてきた。ところが、その如乗も瑞泉寺の地が「不弁」であることを理由に立ち退き、加越国境地帯に移って二俣本泉寺の創始者となった。如乗は娘の如秀に蓮如の次男蓮乗を偶し、蓮乗は二俣坊と瑞泉寺を兼ねる往寺となった。しかし、蓮乗は病弱であったため、実際に教団を差配していたのは如乗の妻で、蓮乗の義母に当たる勝如尼であったと伝えられる。このように、瑞泉寺は緯如による開基後長らく正式な住職がいない時代が続き、8代蓮如の時代に至って住職が派遣されてきたものの、その多くは加越国境地帯の本泉寺に本拠地を置き瑞泉寺とは距離を置いていた。 一方、住職のいない瑞泉寺では現地の者が寺を運営していたようであり、文明2年(1470年)に蓮如が訪れた時瑞泉寺の留守をしていたのは瑞泉寺の開基に携わった杉谷慶善の娘如連であった。この如蓮は「時宗の徒」であったとされており、純粋な浄土真宗門徒ではなかった。また、綽如に随従してきた下間慶乗は「竹部」を名垂って現地に定住したとされるが、この末裔こそが田屋川原の戦いで活躍した「竹部豊前」であるとみられ、この「竹部家」も瑞泉寺を運営する地元の有力者であったと考えられる。 草野顕之は、この頃の瑞泉寺では杉谷家や竹部家のような外護者や植越が運営の主体となっており、このような勢力が強い発言権を有していたからこそ、如乗らは瑞泉寺を「不弁」であるとして距離を置いていたのではないかと推測している。これを裏付けるように、蓮欽の瑞泉寺における立場は「契約による留守分」、その子賢心は「契約往持分」と記録されており、後代に至るまで杉谷家や竹部家といった現地勢力が本願寺本流をしのぐ権勢を得ていたことが窺える。後述するように土山御坊・本泉寺といった本願寺直系の寺院は「田屋川原の戦い」に積極的に関与した形跡が 一向一揆を主導したのは現地勢力であって、 本願寺本流はむしろ一揆に消極的であったというのは、蓮如の文明6(1474)年の加賀一揆に対する態度からも裏付けられる。蓮如は文明5年11月の捉十一カ条において「念仏者において、国の守護・地頭を専らにすべし」と述べて在地勢力を尊重したが、 このような蓮如の態度にも関わらず翌年に加賀で一向一揆が起こり、 更にその翌年に蓮如は十カ条旋で改めて守護・地頭への協調を指示している。 すなわち、蓮如は守護勢力に対する反抗を批判否定しつつ、 一方でこのような門徒衆を破門できないというジレンマを有しており、 このような連如の立場はそのまま如乗の瑞泉寺に対する態度と共通している、と考えられる。
※この「瑞泉寺」の解説は、「田屋川原の戦い」の解説の一部です。
「瑞泉寺」を含む「田屋川原の戦い」の記事については、「田屋川原の戦い」の概要を参照ください。
瑞泉寺と同じ種類の言葉
- 瑞泉寺のページへのリンク