はん‐じょ〔‐ヂヨ〕【班女】
班女
班女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 04:58 UTC 版)
「班女」(はんじょ)は1955年(昭和30年)、雑誌『新潮』1月号に掲載された。原典『班女』のシテの〈豊かな表現〉について三島は、〈孤独なままで、その感情の振幅だけで、劇を作り上げて〉いて、〈心理解剖もせず、分析もせずに、捨てられた女の嗟嘆が、そのまま劇的クライマックスまで、持つて行かれてしまふのである〉と賛嘆している。 そして同じような性質を持つヒロインが描かれた『欲望という名の電車』の〈アメリカの色きちがひ〉と比し、〈日本中世の色きちがひ〉は〈品格〉があるとして、近代劇の狂女は他の登場人物と〈おなじ次元の上で対立を余儀なくされる〉が、『班女』の狂女は、〈他の登場人物の住んでゐる世間から、狂気によつて高く飛翔した。あるひは深く沈潜した、一種の神なのであつた〉と解説している。 また、自作の『班女』にも愛着があるとし、そのシテには、リルケの『マルテの手記』で描かれているポルトガルの尼僧などの「愛する女性」の面影、リルケが描いたサフォーの女性イメージを重ねたとしている。 あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。それは花子が狂気だからではない。実子の云ふやうに、彼女の狂気が今や精錬されて、狂気の 宝石にまで結晶して、正気の人たちの知らぬ、人間存在の核心に腰を据ゑてしまつたからである。そこでは、吉雄も一個の髑髏にしか見えないのである。 — 三島由紀夫「班女について」 さらに、〈小さくても完全なものには、巨大なものには、求められない逸楽があり、必ずしも偉大でなくても、小さく澄んだ崇高さがありうる〉と前置きした上で、〈原曲の意図も、拙作の意図も、捨てられた狂女の心にひそむこの小さな崇高さと、小さな秘密の逸楽の表現にある〉としている。
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