演義での劉琦
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『三国志平話』および『三国志演義』では、諸葛亮からは「琦君」と呼ばれ、柔弱な人物に描かれてはいるものの、聡明を謳われ、また親孝行者でもあり、劉表から愛され、劉琮とも決して仲が悪く描かれてはいない。だが、劉琮の生母の蔡氏やその弟の蔡瑁と張允らに敵視されて讒言を受け、また生来から病弱で穏健だったため、自ら劉表の後継者を辞退する。それでも身の危険を感じたため、諸葛亮の取りなしにより江夏に移り住むことになっている。さらに父の危篤を聞いて江夏から襄陽に駆けつけるも、蔡瑁に「江夏の守備という重大な持ち場を離れてこちらに来るとは何事か。速やかにお帰り下さい。」と言われて城門を開けてもらえず、ひとしきり大声を上げて泣いた後、父の死に目に逢えずに江夏へ帰っている。 長坂の戦いでは曹操に追われた劉備を救うべく、関羽と共に援軍として登場し、劉備軍を救うなどの活躍も見せている。赤壁の戦いの後は、正史同様に劉表の後を継ぐ荊州の主として、劉備・諸葛亮らに盛り立てられるが、病弱の体で酒に溺れたため、病没してしまう。 柴田錬三郎の『三国志』では、劉琦は劉表の弟と設定されている。NHK人形劇『人形劇 三国志』では、周瑜の荊州をよこせという脅しに屈せず、死ぬ前に劉備を新しい荊州の主にすることを遺言するなど、意志の強い劉琦が描かれている。
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