江戸時代の歴史
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「和田峠 (長野県)」の記事における「江戸時代の歴史」の解説
中山道は、江戸幕府によって整備された街道であり、平均すると2里程度の間隔で宿場町が置かれていたが、この和田峠は険しい山の中にあり、峠の江戸側の和田宿と京都側の下諏訪宿の間隔は実に5里半弱と長い。冬季の降雪も多く、中山道最大の難所とされていた。このため、途中に何箇所か旅人のための避難所や茶屋が設けられていたほどである。これらの茶屋は「西餅屋(下諏訪宿側)」「東餅屋(和田宿側)」「接待(和田宿側)」などと呼ばれ、いまでも地名にその名を残している。 1864年12月18日(元治元年11月20日)、和田宿から下諏訪宿へ向かって峠を通過した水戸浪士天狗党と高島藩・松本藩連合軍が交戦し天狗党が勝利した(和田峠の戦い)。
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江戸時代の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/12 00:21 UTC 版)
江戸時代初期の街道絵図、国絵図、絵巻などに描かれ、江戸時代の文献には、尾張より駿河へ向かう道としてその名を「駿河街道(駿河海道)」、或いは、三河方面より名古屋へ向かう道として「なごや道(なごや海道、名古屋新道)」と書いている。 江戸時代の文献には「駿河」あるいは「なごや」以外の街道名で表記された文献は見つかっていない。
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