江戸時代の楯無
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江戸時代中期の地誌類では、萩原元克『甲斐名勝志』では菅田天神社社殿内に楯無鎧が祀られていると記し、これを源頼義が後冷泉天皇から下賜された武田家累代の宝器としており、これは近世文献で楯無鎧が菅田天神社に伝来していることを記した初見であると考えられている。 文化11年(1814年)に成立した松平定能編『甲斐国志』は楯無鎧に関する多様な伝承を記している。『国志』によれば楯無鎧は源頼義が前九年の役に際して拝領したもので、新羅三郎義光から武田氏に伝来し軍神として崇拝されたという(巻109)。また、戦国期には鬼門封じのため菅田天神社に納められ、於曽氏により管理されたことを記し、武田滅亡の際に鎧が埋められた向嶽寺大杉の下は、かつで新羅三郎義光が楯無鎧を埋め、武田信重も出奔に際して鎧を埋めたという伝承を記しており(巻75「向嶽寺」)、楯無鎧を埋納したという伝承は近世文献において確認される。 また、『国志』では武田氏滅亡に際して、滅亡の地である田野から勝頼着用の鎧を回収して菅田天神社に納めて楯無鎧と称されたと記し、江戸時代の元文年間には青木昆陽(文蔵)が甲州を調査した際に鎧櫃を見聞し、これを契機に存在が知られ、観覧者が増加し盗難され破損する事件も発生したという(巻109)。 『国志』によればこの事故を受けて幕臣である清水時良(平三郎)、中村知剛(八太夫)により修復が企図され、寛政3年(1791年)から翌寛政4年には江戸で甲冑師明珍宗政・宗妙親子による修復が行われたという。『国志』には菅田天神社神職土屋将良(左衛門)からの伝聞情報を記した榊原香山による修復記録を収録しており、修復中には香山自身も鎧を実見している。 同記録では楯無鎧の破損状況や修復に至る経緯が記されており、同じく『国志』に収録されている菅田天神社神職日記によれば、楯無鎧は寛政3年12月4日に江戸へ到着し、寺社奉行による内覧、12月18日には将軍徳川家斉による上覧を経たという。また、陸奥国白河藩主で幕府老中を務めた松平定信は、全国各地の書画や古器物・武具などを模写した『集古十種』を編集し、享和・文化初年に刊行されている。『集古十種』では楯無鎧に関しても記述されており、寛政4年(1792年)時点での破損していた状態の楯無鎧を図解で記している。楯無鎧は同年に修復され将軍の上覧を仰いでいるが、定信は楯無鎧の複製を作成し、寛政7年(1795年)に現在の福島県白河市の鹿島神社に奉納している。 『名勝志』『国志』などの記載から18世紀代には菅田天神社伝来の小桜韋威鎧鎧が武田家に相伝された楯無鎧であるとする認識が定着していたことが確認されるが、楯無鎧を所蔵する菅田天神社は府中八幡神社(現八幡神社)での交代祈祷を義務づけられた勤番社であったが、寛政3年に将軍家斉が楯無鎧を上覧した際には天正11年に徳川家康が鎧を上覧したという由緒を紹介しており、文化14年(1814年)には将軍朱印状を得て勤番役を免除されており、楯無鎧に関する伝承の成立と菅田天神社の自立が連動していることが指摘される(注3西川論文・西田かほる「楯無鎧をめぐる伝承の実体化」『口頭伝承と文字文化』(2009、思文閣)、菅田天神社が勤番役体制から自立した課程については西田かほる「近世後期における社家の活動と言説-甲州国中・菅田天神社文書を素材として-『史学雑誌』(1997)。
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