武道の探求とは? わかりやすく解説

武道の探求

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 10:00 UTC 版)

保江邦夫」の記事における「武道の探求」の解説

高校時代から武道憧れ抱いていた保江は東北大学時代合気道部所属先輩である橋本敬三がたびたび合気道部訪れ、彼から操体法を学ぶ。 ある理由により保江は2年次退部申し出る。それでも合気道部仲間は保江を気遣い籍を残したままとし、4年次には副将肩書与えて復部するのを待ってくれていた。 名古屋大学大学院時代には合気道再開するまた、同大学院にて木村達雄邂逅木村合気道対す純粋な思い感銘を受ける。そして木村と共に名古屋大学合気道部創設関わり山口清吾師範に学ぶ。 スイス滞在時において現地合気道道場へ通う。ところがドイツ山岳地帯出身大男には保江の合気道の技は通用しなかった。そうした折、たまたまスイス訪れていた木村達雄から鍛練方法一つである四股学んだ木村からは一日2000四股踏み行えと言われたが、保江は一日300四股鍛練した。すると、そのドイツ人大男難なく投げれるようになる。 「秘伝日本柔術」(新人物往来社 松田隆智編)大東流佐川宗範の項を何度も読み返し佐川宗範の自然で崇高な姿に魅せられた保江は木村佐川道場入門取り次いでもらうよう懇願する。いったん断られるが「まあ、入門のためにスイスから帰国するくらい覇気のある奴なら許可してもいいだろう」との返事得て、ようやく手に入れた職を辞し帰国する決意をする。 1982年佐川道場入門するためにスイスから帰国木村達雄紹介により佐川道場入門佐川幸義直門となり大東流合気武術を学ぶようになる。後に佐門会への参加許され100回を越え稽古参加する。ある時に妻の持病のため岡山へ帰らざるを得ない旨を佐川宗範に告げたところ、特別に10日間にわたる一対一直伝講習を受けることを許された。これを最後に佐川宗範の直伝講習はなくなる。その後ばらくたって、岡山から東京へ行く機会を得るようになり、また佐川道場稽古参加できるうになる地元岡山にて戦前天才少女と言われた畠瀬幸枝薙刀天道流剣術を学ぶ。加えて、エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父から修道師に伝わる護身技法を学ぶ。その技法が後の冠光寺流柔術基礎となる。 現在は、合気道星辰道場岡山市責任者 北村 好孝 合気会所属)において、合気道指導行っている。

※この「武道の探求」の解説は、「保江邦夫」の解説の一部です。
「武道の探求」を含む「保江邦夫」の記事については、「保江邦夫」の概要を参照ください。

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