松竹の洋画劇場
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単独の映画館となった帝国館は、やがて松竹に譲渡された。このころ同館が発行していた週刊ニュース「第一新聞」を押山保明が編集していた。1917年(大正6年)、活動弁士の生駒雷遊が同館の主任弁士となった。1919年(大正8年)ごろには弁士の津田秀水が人気を博した。 1921年(大正10年)、松竹は、帝国館を松竹洋画のフラッグシップ館と決定、松竹洋画部が買い付ける洋画を上映した。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で浅草は壊滅、帝国館も崩壊したが、復興後は、引き続き松竹洋画の拠点として機能した。 1925年(大正14年)2月27日、帝国館と新宿武蔵野館がパラマウント映画の特作映画『十誡』を同時に公開したことが話題となった。 1927年(昭和2年)、僊石政太郎の設計により改築した。このときの建物は1980年代まで使用された。やがて、「浅草松竹映画劇場」と改称、松竹製作の新作を公開する劇場となった。 1983年(昭和58年)、閉鎖・廃業し、解体された。跡地は浅草ROXとなった。同館の代替として、かつての金龍館、当時の「浅草ロキシー映画劇場」が二代目「浅草松竹映画劇場」となった。
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