有力分家とは? わかりやすく解説

有力分家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:34 UTC 版)

薩摩藩家臣」の記事における「有力分家」の解説

薩摩藩77万石大藩割には支藩佐土原藩1つのみであったが、小大名級の所領封じられ分家庶流多数抱えていた。特に藩主直系の子孫を当主とする4家は「御一門」と呼ばれた元文3年一門家新設時は加治木家と垂水家がこの家格とされたが、同年成立した重富家加わり重富家前身越前島津家室町幕府の直勤だったため、一門家筆頭とされた。延享元年今和泉家が成立すると、同家一門家となった。なお、一門家通称、「四家」ともいわれた。 「御一門」の呼称成立するのは正徳年間だが、家格としては元文年間成立し70人賄料であった藩主家断絶したときには跡継ぎを出す江戸幕府御三家似た役割持ち別格扱い受けた家老など役職につくことはなかったが、藩主の命で政務参与することがあり、この場合家老よりも格上扱いであった。ただし、家臣であることには変わりないので、島津久光息子忠義後見人になるにあたり、いったん重富家との養子縁組解消して本家に戻る、という形式踏んだ御一門次いだのが、大身分と呼ばれた4つの有力分家だった。正徳2年1712年11月4代藩主島津吉貴時代島津家家格整備により、島津左衛門家(日置島津家)、島津周防家花岡島津家)、島津筑後家(都城島津家)が大身分に位置付けられ、後に島津図書家(宮之城島津家)が加えられた。大身分は藩主への挨拶をする儀式序列において御一門次ぎ国老家老)よりも前とされた。これらの分家衆の中で突出して最も広大な領地持っていたのが都城島津家北郷氏本家)だった。大身分は天明6年1786年)に、大身分が城下の上士にあたる寄合並以上の総称とされた後も別格扱いされた。 近世前期には、本宗家に次ぐ「脇の惣領」をめぐり、垂水家と加治木家・日置家上位主張した事例や、日置家同様を主張する宮之城家訴訟年頭太刀進上座席順をめぐる新納家佐多家の悶着などが起きていた。

※この「有力分家」の解説は、「薩摩藩家臣」の解説の一部です。
「有力分家」を含む「薩摩藩家臣」の記事については、「薩摩藩家臣」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「有力分家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「有力分家」の関連用語








8
4% |||||

有力分家のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



有力分家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの薩摩藩家臣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS