にちべい‐わしんじょうやく〔‐ワシンデウヤク〕【日米和親条約】
日米和親条約 (にちべいわしんじょうやく)
日米和親条約
日米和親条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 02:15 UTC 版)
1853年(嘉永6年)、東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーは、米国大統領フィルモアの国書を幕府にもたらすために、軍艦4隻を率いて浦賀に来航した(黒船来航)。国書を受け取った幕府は、その回答を翌年に行うこととし、ペリーは一旦琉球へと去った。幕府はこれを朝廷に伝え、その後諸大名に国書を示し意見を問うた。当時、外交などに諸大名が口出しをすることはなく、異例のことである。幕府の困惑ぶりを示すものといえるが、かかる来航には何も予告が無かったわけではない。すでに前年の1852年(嘉永5年)にオランダ商館長クルチウスが東インド艦隊の来航を告げていた。幕府は、この告知を無視していた。 ペリーによる黒船の来航にあたり、「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず 」のような狂歌が流行る。 翌1854年(嘉永7年)1月16日、ペリーが再度7隻の軍艦を率い再び神奈川沖に来泊。2月10日には、林復斎らと交渉が開始された。幕府は漂流民保護・薪水食給与などを承認、通商については決し難き旨を回答した。3月3日、日米和親条約(神奈川条約)が締結され、日本は、下田・箱館の2港を開港した(1855年(安政2年)下田で条約批准)。
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