政界再編
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竹下に支えられた宮沢改造内閣で冷遇された羽田派はやがて自民党を離党して新生党に発展し、自民党の55年体制を崩壊させた。一方小渕派は徐々に力を取り戻し、自民党の政権復帰後は1995年の総裁選で梶山・野中広務が橋本総裁実現に大きく貢献した。橋本は総理就任後梶山を官房長官に就け、構造改革・財政再建を断行する。 1997年頃、連立相手をめぐり梶山は新進党内で孤立しかけていた小沢と保保連合構想を模索し、自社さ派の野中広務と対立する。1997年9月、橋本と小渕が自社さ派に屈する形で自社さ派の勝利で対立が決着した。これにより梶山が官房長官を辞任し、橋本と決別することになった。 橋本内閣は景気の悪化による1998年の参議院選大敗の責任をとり総辞職。後継総裁をめぐって、野中ら自社さ派の推す小渕と保保派の推す梶山が真っ向から対立。橋本は同年齢、同期で最大の親友である小渕を支持し、梶山は小渕派を離脱して総裁選に出馬した結果、竹下による小泉純一郎擁立もあり、小渕政権が誕生。一方、1998年7月には奥田が死去している。 小渕政権は前任の橋本改革路線とは正反対の経済財政政策を採り、景気回復に努めた。この頃から野中広務・青木幹雄・村岡兼造らポスト七奉行世代の実力者が派をリードするようになった。 2000年5月小渕が死去すると、派閥会長は橋本が引き継いだ。小渕と橋本は政策的には距離があったが政局では一度も敵対することはなかった。しかし会長になっても橋本改革路線は復活せず、野中・青木・村岡を含めた集団指導体制になった。また、2000年には竹下・梶山が相次いで死去している。 2001年3月、ポスト森総裁選に野中を推す声が派内で高まるが、青木が強硬に反対し実現せず、結局橋本が再び立候補することになった。橋本は野中の要望を聞き入れ総裁時代の改革路線を大幅に修正し、景気回復との両立を図ることを公約に立候補したが、青木と「変人」小泉の前にまさかの大敗北を喫した。 2006年7月、橋本龍太郎が腸管虚血で死去。 2009年8月、得票確保に疾走した小沢の功績もあり、民主党が衆議院議員総選挙において絶対安定多数を上回る308議席を獲得。第1党に躍進。議場にて戦友とも言うべき羽田と労を労うシーンも見られた。なお、羽田はこの任期をもっての引退を示唆している。 2012年12月16日に行われた第46回衆議院議員総選挙において、前述の羽田に加えて渡部も出馬せず引退した。 2017年8月28日、羽田孜が老衰で死去。2020年8月23日、渡部恒三が老衰で死去。第202回国会召集時点で小沢が唯一の現職議員かつ存命者となった。
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