江戸時代
徳川時代
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慶長16年(1611年)3月24日、伏見城の徳川家康のもとへ祗候するために上洛をした時に病に倒れた。この時、忠興に癪の持病があることを知っていた家康は、本多正純を通して漢方薬の万病円を忠興に遣わしており、快復した忠興がその日のうちに家康のもとに祗候し、礼を述べている。 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも参戦する。戦後、松平の苗字の下賜を辞退する。元和6年(1620年)、病気のため、三男の忠利に家督を譲って隠居する。この頃、出家して三斎宗立と名乗った。 寛永9年(1632年)、忠利が豊前小倉40万石から肥後国熊本54万石の領主として加増・移封されると忠利に44万5,000石を残し、自らは八代城に入り、9万5,000石を隠居領とし北の丸を隠居所(本丸には忠興四男の立孝を入れる)とした。 この時、忠興に従って八代郡高田郷に移った上野喜蔵と長男の忠兵衛によって高田焼が創始された。 忠興は立孝に自分の隠居領9万5,000石を継がせて立藩させることを強く望んでいたようであるが、正保2年(1645年)閏5月に立孝が早世し、忠興も同年12月2日に死去したため、叶わなかった。臨終の際には「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかった。享年83。 八代城には孫で立孝の子・宮松(行孝)が残されたが、従兄の熊本藩主・光尚(忠利の子、忠興の嫡孫)はこれに宇土郡・益城郡内から3万石を与えて宇土支藩とし、筆頭家老・松井興長(長岡佐渡守、松井康之の次男)を八代城3万石の城主(正式には城代)とした。興長の跡は忠興の六男・寄之(よりゆき)がその養子となって嗣いでいる。
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