ばんずいいん‐ちょうべえ〔バンズイヰンチヤウベヱ〕【幡随院長兵衛】
幡随院長兵衛
幡随院長兵衛
読み方:バンズインチョウベエ(banzuinchoubee)
幡随院長兵衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/01 03:10 UTC 版)
幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ、元和8年(1622年) - 慶安3年4月13日(1650年5月13日)あるいは、明暦3年7月18日(1657年8月27日)とも)は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。
注釈
- ^ 芝居『極付幡随長兵衛』の筋書きでは、長兵衛はこれが罠であることを勘づいていたが、引きとめる周囲の者たちを「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」の啖呵を切って振り切り、殺されるのを承知で一人で水野の屋敷に乗り込む。酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で裸でいるところを水野に襲われ殺される。水野は、長兵衛殺害の件に関してはお咎めなしであったが、約7年後の寛文4年(1664年)3月26日、行跡怠慢の咎で実母・正徳院の実家である徳島藩藩主(蜂須賀家当主)・蜂須賀光隆の下に、弟・忠丘等共々お預けとなった。翌27日に評定所へ出頭したところ、出頭時の容姿が月代を剃らず着流しの伊達姿であったため、あまりにも不敬不遜であるとしてその日のうちに切腹、僅か2歳の嫡子・百助も誅されて、水野家は一時家名断絶となった。その後、弟の忠丘が元禄元年(1688年)に赦された後、元禄14年(1701年)に旗本となった事で、水野家は再興された。
出典
- ^ 幡随院長兵衛生誕の碑
- ^ 台東区の史跡・名所案内
- ^ 武江年表, 三十三 (大正1)
- ^ 『実録 江戸の悪党 (学研新書)』学研パブリッシング、2010年、217頁。(Googleブックス)
- 1 幡随院長兵衛とは
- 2 幡随院長兵衛の概要
幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)
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「忍者と極道」の記事における「幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)」の解説
江戸一の大任侠。部下を殺された怒りで明暦の大火を巻き起こし、惨蔵と世紀の一戦を交えた侠客。惜しくも敗れて瀕死の重傷を負い、強敵にして盟友だった水野十郎左衛門に介錯を行わせた。
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