州道時代
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「オーバーシーズ・ハイウェイ」の記事における「州道時代」の解説
今日ではオーバーシーズ・ハイウェイは元のオーバーシーズ鉄道の用地に沿って通っているが、一部は鉄道とは別個に古くから建設されていた。この部分はキューバとの貿易を迅速に行うための道路で現在も使われている。オーバーシーズ・ハイウェイ構想はマイアミ・モータークラブ (Miami Motor Club) で1921年に初めて提唱された。1920年代のフロリダの土地ブーム(英語版)が下火になり、クラブは魚釣りができる地域へ車で容易にアクセスできるようにして観光客を引きつけたいと考えた。その時代ボートか鉄道しか交通手段がなかったのである。土地ブームはまた不動産へ関心を持つ人々を引き寄せた。彼らは未開発の広大な土地があるアッパー・キーズ (upper keys) へ車でアクセスできることを望んだ。更に鉄道の完成はフロリダキーズを縦断するハイウェイが実現可能であることを実証した。 フロリダ州道4A号線となる初代のオーバーシーズ・ハイウェイ(マイアミからホームステッド(英語版)へ至るルートの延長)の建設は1920年代半ばを通して続けられた。1928年1月25日、公式に開通した旧オーバーシーズ・ハイウェイは大きな隙間(great extent)で2つの区間(セグメント)に分かれていた。一方の区間は本土からカード・サウンド橋(英語版)を経由してキーラーゴ島、更にその先のロウワー・マテカム・キー(英語版)へと通じており、もう一方のロウワー・キー側の区間はノーネーム・キー(英語版)からキーウェストまでだった。自動車フェリーの運行はロウワー・マテカム・キーとノーネーム・キーの66キロメートルの隙間を結んでいた。州道4A号線はアッパー・キーズでは大部分が元のオーバーシーズ鉄道の跡を通っていたのであるが、ロウワー・キーズ(lower keys)では状況は異なり、現在のオーバーシーズ・ハイウェイのルートを通っていた。ノーネーム・キーに接岸したフェリーは(接岸場所は現在のワトソン・ブールヴァードの端部にあたる)リトル・トーチ・キー(英語版)へと渡っていた。リトル・トーチ・キーでは4A号線は南へと曲がり再び鉄道と合流していた。更に鉄道の北側沿いにアッパー・シュガーローフ・キー(英語版)へ続き、そこで南へ曲がって、ロウワー・シュガーローフ・キー(英語版)とサドルバンチ・キー(英語版)を超えて、現在の郡道939と939Aのルートを通っていた。サドルバンチ・キーから州道4A号線は現在のガイガーロード(Geiger Road)とボカチカ・ロード(Boca Chica Road)のあるガイガー・キー(英語版)へと渡っていた。ボカチカ・キー(英語版)ではキーウェスト海軍航空基地(英語版)の滑走路南の海岸線からボカチカ・ビーチを通ってストック・アイランド(英語版)へと渡っていた。ストック・アイランドではマロニー・アベニュー(Maloney Avenue)とマクドナルド・アベニュー(MacDonald Avenue)へと続き、そこでキーウェストへ向かうオーバーシーズ鉄道と再合流していた。ロウワー・キーの州道4A号線に架けられていた橋の多くは木造で1920年代初頭まで使われていた。 1930年代初頭までにフェリーではフロリダキーズへの旅行需要に応えられないことが明らかとなり、モンロー郡 (フロリダ州)およびフロリダ州運輸局(英語版)は一続きの幹線道路にするため州道4A号線の2つの部分を接続する計画の策定を開始した。1931年まではフェリー会社もヴァカ・キー(英語版)のホグ(Hog)からマラソン(英語版)市を通り抜けてグラッシー・キーズ(Grassy Keys)へ至る全長21キロメートルの道路も提供していた。1933年、フロリダ州議会は道路を延長する予算を連邦政府から引出すためにオーバーシーズ・ロード・アンド・トール・ブリッジ・ディストリクト(Overseas Road and Toll Bridge District; 以後「ORTBD」と略す)を設立した。大恐慌の最中の事で、国として出せる予算は少なかったが、結局、連邦緊急救済局(フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策で創設された)が予算を出すことになった。戦時賞与の支払いが早期に行われないことに不満を持った、数百人の第一次世界大戦からの帰還兵達(veterans) が政府の救済計画の一環として道路および橋の建設のため雇用された。 1935年9月2日にイスラモラダ(英語版)をカテゴリ5のレイバーデイ・ハリケーン(英語版)が襲った時、ロウワー・マテカム・キーとロング・キー(英語版)を結ぶ橋の建設は既に始まっていた。このハリケーンは地域に広範な被害を与え、アッパー・キーズにあるオーバーシーズ鉄道の多くを破壊した。ハリケーンによる400人を超える死傷者の内、半数以上が帰還兵達とその家族であった。彼らの死は世論の怒りを招き、議会調査に主導された責任追及へと発展した。現在のマイル・マーカー73にあるロウアー・マテカム・キーのすぐ西側に残る8基のコンクリート製橋脚と浚渫された(dredged)小さな島は全て帰還兵達の仕事である。浚渫された島は現在ではヴェテランズ・キー(Veteran's Key)として知られ、8基の橋脚は帰還兵達の功績を讃える一種の記念碑としてクレイグ・キー(英語版)に残されている。
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