かわかみ‐とうがい〔かはかみ‐〕【川上冬崖】
川上冬崖
川上冬崖(かわかみとうがい 1871-1881)
川上冬崖こと、川上寛(1827ー 1881)は、明治洋画壇の重鎮で、画塾を開き西洋画の普及に努めた一方、陸軍参謀本部地図課の職員として、フランス式近代地図として名高い「二万分の一迅速測図」の作成に画学の面から指導的役割を果たした人である。
冬崖は、文政10年(1827)信濃国福島新田村(現長野市北屋島)の農家山岸家に生まれ、12歳のとき須坂の神社宮司の家に移り住み藩塾に通った。16歳になって、神官の小河原家に望まれて養子に入るが、その家の娘との結婚を勧められたことを期に江戸に出た。
上野寛永寺の脇寺で働くとき大西椿年という南画の師に出会い、更に故あって幕府御家人川上家の婿養子となったことで、その後沼津兵学校を経て蕃書調所に出仕した。さらに、同所が開成所(明治2年)となるに及んで、絵心を見込まれ西洋画の研究に携わることになった。
明治維新後も、他の優れた幕臣と同様、新政府にも招かれ、再興された開成所に出仕し(明治2年)画学教授のかたわら私塾を開いた。この間、図画教本「西画指南」を著す(明治 4年)とともに、のちに洋画壇で活躍する多くの門人を育てた。その後開成所を改組した大学南校を辞し、陸軍省兵学寮に出仕(明治 6年1873)、図画教育に当たる。
同年、のちの地図図式にあたる「地図彩色」を、翌年には図画教本である「写景法範」を、続いて種々の実験を積み「東京近傍写景法範」を最初の石版本として刊行した。これらの風景や建造物、人物などをモチーフにした図画教本をもとに、地図作成や地誌調査に使われる図画教育が陸軍内で行われた。また、当時地図課では地図製図に従事する者として画家を採用しており、冬涯のみならず、浮世絵、漢画、日本画、水彩画、油絵、そして漫画をするものなど多彩な顔ぶれが揃っていた。
そうした明治13年、冬崖の教育を受けた測量師や測量手らによって、地図彩色と余白に描かれた色鮮やかなスケッチの記入で有名な「迅速測図」約900 枚の作成が始まったのである。ところが、この地図作成の最中、陸軍の内部抗争ともいわれる、清国への「地図密売事件」にまきこまれたのだろうか。冬崖は熱海の療養先で、絵の具で体を朱に染めて自死する(明治14年)。この死については、清国への「地図密売事件」そのものがでっち上げであり、相前後して起きた参謀本部職員の謎の死と、陸軍少佐木村信卿らの逮捕拘留、その後陸軍の兵制と地図作成が彩色式のフランス式から単色のドイツ式へ変更されたこととの関連から、今なお種々の疑惑が取りざたされている。
冬崖の絵画作品は、長野県立信濃美術館が多くを所蔵している。
川上には絵画以外の貢献もある。万延元年(1860)、プロシアが幕府に石版印刷機を献納していた。そのデモ印刷のとき葵の御紋を印刷したという不謹慎さのことから? その石版印刷機は、当時冬崖の勤める蕃書調所の奥深く仕舞われたままになっていた。維新後、冬崖は沼津兵学校、さらに陸軍省兵学寮へと転任するが、石版印刷機もまた同じ道をたどる。兵学寮に移った冬崖は印刷器械の埃を払い、説明書を翻訳し、現国立印刷局の前身である印書局にあったボインドンに直接教えを乞い石版印刷をものにした。この技術が、多胡実敏などを経て陸地測量部の石版印刷へと連なる。


「視図」と呼ばれる図中の風景や目標物
川上冬崖
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川上 冬崖(かわかみ とうがい、文政11年6月11日(1828年7月22日)? - 明治14年(1881年)5月3日)は、幕末から明治前期にかけて活躍した南画家、洋風画家、図画教育者である。諱は寛(ひろし)、幼名は斧松、字は子栗、通称は万之丞。
略歴
文政11年(1828年、文政10年(1827年)生まれとも言われる)、信濃国高井郡松代藩領福島新田村(現長野県長野市)に山岸瀬左衛門の末子として生まれる。母の実家である墨坂神社宮司方から須坂藩藩校立政館に学ぶ。弘化元年(1844年)江戸に出て上野寛永寺東叡院の小従となり、同院に出入れしていた円山四条派の絵師大西椿年に写生画を学んだ。嘉永4年(1851年)に幕府御家人株を購入、川上仙之助の養子となり、以後川上姓を名乗る。幕臣となり蕃書調所へ出仕、安政4年(1857年)2月に蕃書調所句読教授出役、同年7月に蕃書調所絵図調出役に命ぜられ[1]、その直後長崎海軍伝習所に赴く。そこでオランダ書の翻訳を通じ遠近法、製図、測量術などを研究し、石版画などの模写を行う。文久元年(1861年)、画学局が開設されると画学局出役、翌年同局筆頭になり、少し後に入局する高橋由一と共に、博物図譜制作にあたるなどの活発な活動をみせる。慶応元年(1865年)、將軍徳川家茂に従って上京、技術者として製図・写真撮影に従事した。
明治維新後は明治2年下谷御徒町の700坪に及ぶ自らの屋敷内に画塾「聴香読画館」を開く。そのカリキュラムや塾生について正確な記録は残っていないが、小山正太郎、松岡寿、印藤(千葉)真楯、川村清雄、中丸精十郎、松井昇、浦井韶三郎らを指導する。また、地理書「輿地誌略」の挿絵を銅版画で描いたり、石版技術を研究し「写景法範」という習画帳や西洋画の一般指導書「西画指南」を刊行[2]、洋画法の普及に功績を残す。明治9年(1876年)には明治天皇の北海道行幸に随行して、2点の油画を制作献納している。ただし、冬崖の油彩画は書物から学んだ技法を中心とするもので、西洋画と呼びうる作品は多くは残っていない。そもそもタブローの基準作が定まっておらず、真贋の鑑定が難しい。その一方で、冬崖は伝統的な日本画を多く描き、下谷の文人サロン「半閑社」のメンバーと親しく交遊し、聴香読画館も当初は南画を学ぶ者が多かった。伸びやかな筆致による花鳥画の優品を見る限り、洋画より南画に才能を持っていたようだ。明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会では美術部の審査主任を務めており、これは冬崖が伝統美術と西洋美術の両方に通じていたことからの人選だと考えられる。一方、明治5年10月より陸軍兵学寮に出仕し、明治11年(1878年)からは参謀本部地図課に勤めた。明治14年(1881年)第二回内国勧業博覧会でも審査官を務めるも、熱海で自殺。部下の起こした清公使館への地図密売事件の責任を取ったとされる[3]が、詳細は不明。墓所は谷中霊園。
主な作品
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
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蝦蟇図 | 着彩、絹 | 早稲田大学図書館 | 1857--73年(安政4ー明治6年)頃 | 学術的に冬崖真筆としてもっとも確実な作品[4]。 | |||
ナポレオン像 | 水彩、紙 | 長野県立美術館 | 製作年不詳 | ポール・ドラローシュの《フォンテンブローのナポレオン像》(ライプツィヒ造形美術館蔵)の上半身模写。本作の複製画が日本にもたらされ、開成所周辺にあったと推測される。 | |||
玉堂富貴図 | 長野県立美術館 | 1878年(明治11年) | |||||
風景図 | 東京国立博物館 | 1878年(明治11年)頃 | |||||
山水花鳥雑画帖 | 東京国立博物館 | ||||||
梅に水鳥図 | 絹本著色 | 1幅 | 69.0x104.3 | 三の丸尚蔵館 | 1879年(明治12年) | 元は額装[5]。 | |
玉堂富貴図 | 紙本墨画 | 1幅 | 132.2x33.2 | 東京芸術大学大学美術館 | 1880年(明治13年) | 款記「歳庚辰小春月上瀚写於崑崙墨花室」/「川上寛」白文方印・「冬崖菴」白文方印 | |
騎馬人物 | 紙、鉛筆 | 64.8x96.0 | 東京芸術大学大学美術館 | 伝川上冬崖 | |||
婦人像 | 紙、水彩 | 56.2x46.0 | 東京芸術大学大学美術館 | 伝川上冬崖 |
川上冬崖を題材とした小説
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- 初出1970年、上記作品で1975年に第72回(1974年度下半期)直木賞を受賞)
脚注
関連項目
外部リンク
参考資料
- 坂本令太郎『近代を築いたひとびと 1』農山漁村文化協会、1975年
- 赤羽篤外編『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年
- 『日本美術館』小学館、pp.844-845、1997年 ISBN 978-4-096-99701-7
- 山梨絵美子『日本の美術349 高橋由一と明治前期の洋画』至文堂、1995年 ISBN 978-4-784-33349-3
- 滝澤正幸 「基調講演2 川上冬崖と開成所資料」静岡市美術館編集・発行 『シンポジウム報告書 「徳川慶喜の油彩画を読む―幕府開成所と近代洋画」』 2018年3月31日、pp.30-39
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