小松藩の治政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 15:51 UTC 版)
2代藩主直治の治世、寛文年間から元禄年間(1661年 - 1704年)にかけて300町歩の新田開発を行った。3代藩主頼徳(直卿)は書の達人で、当時の大名の中でも随一と絶賛されている。 享保17年(1732年)の享保の大飢饉では、小松藩でも救済を必要とする「飢人」が住民の4割を超える事態となったが、隣藩の松山藩が多くの餓死者を出したのに対して餓死者は皆無であった。小藩であるがゆえに領内の不作の兆候の把握が早く、対策が立てられたこと、また日頃からの備蓄米が功を奏したことによるものである。その後も天災や飢饉に際し、領民の状況の把握と救済米の支給など、きめ細やかな対応を行っている。18世紀後半には、大規模な逃散や、首謀者の領外追放で幕を閉じた騒動などはあるものの、流血を伴う事件は記録されていない。 第7代藩主頼親のもと、享和2年(1802年)には奉行・竹鼻正脩によって藩の学問所「培達校」が設置された。翌享和3年(1803年)には朱子学者・近藤篤山を招聘し、「養正館」と改名している。
※この「小松藩の治政」の解説は、「小松藩」の解説の一部です。
「小松藩の治政」を含む「小松藩」の記事については、「小松藩」の概要を参照ください。
- 小松藩の治政のページへのリンク