がくもん‐じょ【学問所】
学問所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/03/11 08:28 UTC 版)
学問所(がくもんじょ)とは、中世・近世における教育機関の名称の1つ。
元は、個人所有の書斎・書庫の意味で用いられていたが、鎌倉時代以後に学問教授の場所としても用いられるようになった。建保元年(1213年)に鎌倉幕府将軍源実朝の学問所の警備と学友を兼ねた学問所番18名(6名ずつ3番)が設置され、北条泰時・安達景盛・島津忠久らが任じられている(『吾妻鏡』)。書院造が成立すると、書斎・書庫などの書室を特に学問所と呼称した。
江戸時代には、江戸幕府が設置した昌平坂学問所の略称として知られた他、江戸幕府が設置した学校や諸藩の藩校の中にもこの名称が採用されるものがあった。
参考文献
- 山本武夫「学問所」(『国史大辞典 3』(吉川弘文館、1983年) ISBN 978-4-642-00503-6)
学問所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:52 UTC 版)
1865年(慶応元年)3月、18歳のときに広島藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)に入学、植田兼山らに師事する。後に同藩校の助教になる。文武に優れた藩中きってのエリートで将来を嘱望される。 1866年(慶応2年)5月、第二次長州征伐の指揮を執るために広島に来ていた老中・小笠原長行の横暴に対して、学問所関係者の若手から反発が起きる。「老中を打ち取るべし」と決し、小笠原の暗殺を謀る。広島藩に建白した署名した55人の中に高間省三がいた。 同年10月、岡山・井原の一ツ橋家の興譲館(こうじょかん)へ遊学する。館長で著名な儒学者で開明派だった阪谷朗廬に学ぶ。
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