宍戸真澂とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 美術人名辞典 > 宍戸真澂の意味・解説 

宍戸真澂

読み方ししど まさもと

勤王家・萩藩大坂留守居役通称山三郎・九郎兵衛左馬之介。名は忠美、号は廂・浮巣翁・宍翁。長門萩生伴信友近藤芳樹師事する国史精通し和歌能くした。勤王尽し元治の変連座自決歌集に『にほのうきす』がある。元治元年(1864)歿、61才。贈正四位

宍戸真澂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 00:14 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
宍戸真澂
時代 江戸時代後期
生誕 文化元年8月13日1804年9月16日
死没 元治元年11月12日1864年12月10日
別名 通称:山三郎、九郎兵衛、左馬之介 名:忠美、号:橘廂、鳰浮巣翁、宍翁
官位 死後贈正四位
主君 毛利斉熙斉元斉広敬親
長州藩
氏族 林氏宍戸氏
父母 父:林隆州
養父:宍戸知之
小弥太
テンプレートを表示

宍戸 真澂(ししど ますみ/まさもと)は、江戸時代末期の勤皇家、長州萩藩士。長門萩生まれ。萩藩の重臣として活躍し、萩藩大坂屋敷の留守居役を務めた。

生涯

長門国阿武郡川上村で林隆州の三男として生まれる。文化14年(1818年)に毛利氏一門である宍戸藤兵衛知之の養子となり、宍戸氏を継ぐ。若き頃に伴信友や近藤芳樹に師事して、国学を熱心に学び、勤皇思想に感化される。安政3年(1856年)に長州藩京都藩邸の都合人になると在京の梅田雲浜らとも交流した。

同藩の来島又兵衛久坂玄瑞らとも気脈を通じて活動したが、元治元年(1864年)の禁門の変において長州藩兵の鎮撫に失敗し、帰国した後に俗論派によって野山獄に投獄され、獄中で斬首された(甲子殉難十一烈士[1]。享年61。

辞世の歌は「われならぬ 人のしをりを たどりつゝ たか根に匂ふ はなをみるかな」。

脚注

  1. ^ コトバンク

関連項目



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「宍戸真澂」の関連用語




4
32% |||||

5
32% |||||



8
14% |||||


10
8% |||||

宍戸真澂のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宍戸真澂のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの宍戸真澂 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS