学問の道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:25 UTC 版)
保己一の学才に気付いた雨富検校は、保己一に様々な学問を学ばせた。国学・和歌を萩原宗固(百花庵宗固)に、漢学・神道を川島貴林に、法律を山岡浚明に、医学を品川の東禅寺に、和歌を閑院宮に学んだ。 塙保己一は書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。保己一の学問の姿勢に感動した旗本の高井大隅守実員の奥方に、『栄花物語』40巻をもらい、初めて書物を所有した。のち、雨富検校の隣人の旗本・松平織部正乗尹(まつだいらおりべのかみのりただ)が講義を受けていた萩原宗固の講義をともに聞くことになった。乗尹は保己一に系統立てた学問をさせる必要を雨富検校に説き、はれて、萩原宗固の門人として教えを受けることとなった。そして、宗固の勧めで漢学や神道を川島貴林(たかしげ)に、同時に律令を山岡明阿(みょうあ)(山岡浚明)に学んだ。宝暦13年(1763年)に衆分(盲官のひとつ)になり、名を保木野一と改めた。明和3年(1766年)、雨富検校より旅費をうけ、父と一緒に伊勢神宮に詣で、京都、大阪、須磨、明石、紀伊高野山などと60日ほどにわたって旅をした。明和6年(1769年)に晩年の賀茂真淵に入門し、『六国史』などを学ぶ。その年の10月に真淵が死去したため、教えを受けたのは、わずか半年であった。安永4年(1775年)には衆分から勾当に進み、塙姓に改め、名も保己一(ほきいち)と改めた。安永8年(1779年)、『群書類従』の出版を決意する。検校の職に進むことを願い、心経百万巻を読み、天満宮に祈願する。
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