大江磐代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/05 08:04 UTC 版)
大江 磐代(おおえ いわしろ[1]、1744年(延享元年)[2] - 1813年1月11日(文化9年12月9日))は、閑院宮典仁親王の女房。光格天皇の生母で[1]、明治天皇の高祖母にあたる。院号は蓮上院。
生涯
1744年(延享元年)に伯耆国倉吉(現・鳥取県倉吉市湊町[2])で、鳥取藩の家老荒尾氏の家臣だった父・岩室宗賢と、鉄問屋の娘であった母・おりんとの間に生まれる。幼名はおつる。
9歳のときに浪人して町医者となっていた父・宗賢とともに京に上がる。養女となり、櫛笥家に仕えるなどの経緯をへて、十代のころには橘姓を名乗り「大江留子」として籌宮成子内親王の侍女となった。
その後、成子内親王が閑院宮典仁親王に嫁ぐと、磐代と名を改め親王の女房となり、寵愛を受けて三人の皇子をもうけた。その長男で閑院宮典仁親王第六王子・師仁親王は、皇子のいなかった後桃園天皇の第一皇女・欣子内親王を中宮に迎え即位した。天皇の生母としては、当時では異例の出自の低さであった。
典仁親王没後は出家して蓮上院と号し、次男で聖護院門跡宮家を継いでいた閑院宮典仁親王第七王子・盈仁入道親王のもとで暮らした。父・岩室宗賢もその縁で家臣に取り立てられ法橋の位を与えられていた。
1812年(文化9年)に69歳で没し、廬山寺に葬られた。1878年(明治11年)に正四位、1902年(明治35年)に従一位を贈られた[1]。
系譜
脚注
- ^ a b c 『鳥取県大百科事典』119頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年9月5日閲覧。
- ^ a b 『倉吉町誌 皇紀記念』770 - 771頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年9月5日閲覧。
参考文献
- 『倉吉町誌 皇紀記念』倉吉町、1941年。
- 新日本海新聞社鳥取県大百科事典編集委員会編『鳥取県大百科事典』新日本海新聞社、1984年。
関連項目
- 大江神社 (倉吉市)
大江磐代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 17:27 UTC 版)
大岳院の檀中からは、第119代光格天皇の生母・大江磐代(おおえ・いわしろ、1744年 - 1813年)が出た。倉吉で生まれた磐代は、父とともに京に上り、閑院宮典仁親王の女房となった女性である。大岳院には大江磐代(尊称して大江磐代君)の母「りん」の霊廟がある。なお、倉吉市内には大江磐代君を祀った大江神社がある。 大岳院は有栖川宮の祈願所となり、有栖川宮織仁親王、韶仁親王の位牌が祀られている。
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