大正政変と元老
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:47 UTC 版)
1912年、明治天皇が崩御し、大正天皇が践祚した。山縣はこの機に桂の影響力を低下させようとし、内大臣として宮中入りさせた。しかし桂は二個師団増設問題を契機に第2次西園寺内閣を倒した。後継内閣の選定にあたっては山縣・松方・井上・大山にお召状が発せられ、12月6日の元老会議に桂が「元老の資格」として参加した。後継首相には桂が選任されたが、これは「元老山縣の子分である桂が首相となった」ととられ、元老制度特に山縣への批判が集中することとなった。結局第3次桂内閣は第一次護憲運動の盛り上がりによってあっけなく崩壊した。山縣はこの機に元老制度を立て直そうとし、西園寺を元老会議に加えるべきと主張した。西園寺は1912年(大正元年)12月21日に「賛翼する所あるべし」という詔勅を受けており、山縣はこの詔勅を根拠として西園寺が元老となる有資格者であるとしたものである。しかし「元勲優遇の詔勅」を受けた桂は、辞表奉呈後に山縣の質問に対して加藤高明が適当であり、「元老が推薦してはいかが」と答えたのみであった。西園寺は組閣を求められたが辞退し、イギリス流に「議会多数党」が政権を取るようにしてはどうかと提案しているが、他の元老から国情に合わないとして反対されている。結局政友会色の強い山本権兵衛を首班とする第1次山本内閣が成立している。
※この「大正政変と元老」の解説は、「元老」の解説の一部です。
「大正政変と元老」を含む「元老」の記事については、「元老」の概要を参照ください。
- 大正政変と元老のページへのリンク