多多良(多々良)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:18 UTC 版)
「ウェーク (砲艦)」の記事における「多多良(多々良)」の解説
ウェークの拿捕は、12月8日午後1時の大本営発表で真珠湾攻撃の成功に続いて発表された。 ニ、帝国海軍は本八日未明上海に於て英砲艦「ペトレル」を撃沈せり、米砲艦「ウェーキ」は同時刻我に降伏せり — 大本営海軍部発表 昭和16年12月8日午後1時 ウェークは1941年12月15日に日本海軍籍へ編入。「多多良 (タタラ)」と命名され、同日付で支那方面艦隊上海根拠地隊に編入された。佐世保鎮守府籍。 開戦劈頭我に降伏せる米軍艦「ウェーキ」は帝国海軍軍艦籍に編入せられ、軍艦「多多良」と命名せられたり — 大本営海軍部発表 昭和16年12月15日午前9時45分、片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』242ページ 1942年1月26日に江南造船所での艦内修理改造完了。備砲は後に日本軍の8センチ砲に交換、機銃はそのまま使用されたと言われている。大戦前半は主に上海、天生などに、後半は南京、安慶、九江などに警泊することが多くなった。1944年10月10日、多多良は鳴海とともに第二十四砲艦隊を編成し、その旗艦となった。この頃にはP-51などの襲撃を受けることも多くなっていったが、多多良と鳴海は空襲のたびに対空砲火の他に阻塞凧を揚げてこれに対抗した。1945年1月1日から2月3日まで江南造船所で修理を行った後、再び九江方面で行動。しかし、戦況悪化により砲艦隊にも被害が続出したので、全ての砲艦は上海に回航される事となった。多多良は鳴海とともに蕪湖で13ミリ連装機銃2基を陸揚げし、無武装状態で上海に係留されたまま、無傷で終戦を迎えた。9月30日に日本海軍籍を除籍。
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