吹浦の伝承
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吹浦の社については、元禄16年(1703年)に芹沢貞運が記した『大物忌小物忌縁起』において、景行天皇のとき出羽国に神が現れ、欽明天皇25年 (564年) に飽海郡山上に鎮まり、大同元年 (806年) に吹浦村に遷座したとある記述があり、現在の社伝はこの吹浦の創建についての伝承を踏襲しているとされる。なお、大同元年は空海が唐から帰国した年にあたり、東北の多くの寺社で創建の年とされているという。 『日本三代実録』貞観13年(871年)5月16日の条にある出羽国司の報告から、飽海郡山上に大物忌神社があったことが確認できるが、大物忌神社の鎮座地は飽海郡にある山の上とあるのみで、上記の吹浦についての言及はない。 創建に関する吹浦の伝承として、他に、吹浦の信徒が蕨岡の勢力に対抗して宝永2年(1705年)に寺社奉行所に提出した「乍恐口上書を以申上候事」という文書に、慈覚大師(円仁)が開基したとの記載がある。この記載は、蕨岡に伝わる縁起に対抗する意味合いが強かったと思われるが、現在も吹浦には慈覚大師直筆とされる天台智顗の図像と金胎両界曼荼羅図が保管されている。 その他、吹浦の「大日本国大物忌大明神縁起」(成立年代不明)には、地元の他の伝承と融合したと思われる「卵生神話」が記されており、「天地が混沌とした中から両所大菩薩・月氏霊神・百済明神が現れ、大鳥の翼に乗って、天竺から百済を経て日本に渡来した。左翼にあった二つの卵から両所大菩薩が、右翼にあった一つの卵から丸子元祖が生まれ、鳥は北峰の池に沈んだ。景行天皇のとき、二神が出羽国に現れ、仲哀天皇のとき、三韓征伐で功績をたてたので、正一位を授かり勲一等を得た。用明天皇のとき、師安元年6月15日に、二神は飽海郡飛沢に鎮まった」という。なお、丸子氏は、遊佐町丸子に住み、鳥海山信仰に大きな影響を与えた一族である可能性があるとされる。その後、貞観6年(864年)、慈覚大師(円仁)が鳥海山から五色の光が放たれているのに気づいて、登ろうとすると、青鬼と赤鬼が妨害したので、火生三昧の法で対抗したところ、鬼は観念して、今後は鳩般恭王として大師に従い仏法を守護すると誓ったという。そして、円融院の代(969年から984年)に朝廷から両所大菩薩と命名されたという。 上記の「卵生神話」は朝鮮の「三国遺事」や「三国史記」にも記載があり、外来の伝承が存在したことが推測されるが、鳥を先祖とするトーテミズム的な発想は、中世に成立した「鳥海山」の名称と関連していて、現在も地元に伝わる霊鳥伝説ともつながりを持っており、中世から近世にかけて成立した伝承である可能性が高いとされる。 永正7年(1510年)の『羽黒山年代記』では、鳥海山は飽海嶽と呼ばれていたとして、欽明天皇7年(546年)に神が出現した後、貞観2年(860年)に、慈覚大師(円仁)が青鬼と赤鬼を退治した後、山の外観が龍に似ているとして、龍の頭部にみえる箇所(龍頭)に権現堂を建て、寺号を龍頭寺(りゅうとうじ)として、さらに、鳥の海に因んで山号を鳥海山としたとされており、卵生神話の記載はないものの、上記の「大日本国大物忌大明神縁」と共通する内容となっている。なお、現在の龍頭寺は大同2年 (807年) に慈照上人が開いたとされており、上述の空海の帰国の年に合わせられているほか、慈照上人の実在が確認されておらず、慈覚大師(円仁)の錯誤である可能性もあるが、『羽黒山年代記』の貞観2年に開かれたとする記述とは年代が離れている。
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